なぜ私は私なのか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 20:31 UTC 版)
解答の候補
解答の候補としては、
- 「擬似問題である」
- 「私しかいない」
- 「ただそうなっている、としか言えない」
- 「私は生きとし生けるもの全てである」
- 「私は全世界である」
- 「「私」も消滅している」
がある。しかし、いずれも正解という解答には至っていないのが実状である。
擬似問題である
言語の誤った使用である
この節の加筆が望まれています。 |
意識に関する別の問題に回収される
記事の体系性を保持するため、 |
私しかいない
独我論と呼ばれる立場には様々なバリエーションがある。単に「自分の感じていることは分かるが、他者の感じていることは分からない」というごく常識的なことを言うだけのものから、最も強い形の立場として「この世界はすべて私が見ている夢のようなものである」という立場まである。このうち最も強い立場を取った場合、それは本稿の問題に対する解答となり得る。つまり他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、ただ私が感じているこの夢としてだけそれらはある、とする。そうすると「私はなぜこの人物か」という形の問いは基本的に解消される事となる。なぜならそもそもこの夢しかなく、この夢だけがあり、それ以外には何もないからである。
永井均に言わせれば、この立場を取った場合、本稿の問いは基本的に存在の問いへと収斂する。つまり「なぜこの夢が無いのではなく、あるのか」と「なぜこの夢はこうした風になっているのか、別様ではないのか」という二つの問いが残され、それが存在の問い「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と「なぜ世界はこのようになっているのか」という問いと合致する。
本稿の問いに対し独我論という立場を用いて解答する方法は理論的にはよく知られたものではあるが、この立場を本当に正しいものとして真剣に主張している者は(少なくとも有名な哲学者の中には)見られない。
ただそうなっている、としか言えない
哲学者永井均は、この問いには、おそらく答えがないだろうとしている。
つまり問いで問われている事実というのは現に成立している事だが、それに対する説明はない、ただそうなっているとしか言えない、これはそういう事実(ナマの事実)であろう、とする。
私は生けとし生けるもの全てである
心理学渡辺恒夫は、遍在転生観(へんざいてんしょうかん)という立場を主張している。渡辺は、永井均の独在論(図中a)における<私>の特別性を解消するため、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張した(図中c)。渡辺自身は科学者であるが、こうした形而上学的立場の主張に自身のキャリアに基づくような科学的な根拠づけは一切ない、と明言している。つまりこれは科学的な主張ではなく、あくまで形而上学的な主張である。渡辺は理論が持つ主たる意義として主に次の二点を挙げている。まず一点目として、永井均が取るような立場において現れる<私>の神秘、これを遍在転生観であれば破ることが出来るということ。つまり遍在転生観ならば永井の<私>を脱神秘化するが可能であるとしている。次に二点目として、こうした形而上学は倫理的に意味があるとしている。つまりどんなに自分が嫌いな相手であっても、または自分にとってどうでもいいと思える人物であったとしても、あれは昔の私かもしれない、または、やがて私はあいつになる、と思っているならば、そうした人物に対してもより深い共感の念を持って接することが可能になるだろう、としている。渡辺のこの考え方は一見荒唐無稽にも思える。しかし素粒子物理学の領域において一電子仮説のような捉え方が可能であることを踏まえると、完全に荒唐無稽なものとも言い切れないだろう、と渡辺は言う。
図を見ると分かるように、渡辺の考え(図中c)は、物理的な時間を前後して転生というものが行われている。この問題を解決するために、(それにそって転生の体験が起きるような)新たなもうひとつの時間軸の導入が必要だろう、と渡辺はしている。渡辺の遍在転生観に対し、哲学者の三浦俊彦は、こうした新しい時間軸の導入などを行なっても、その新しい時間軸上の中でなぜ今この位置にいるのか、これが結局説明されないのであるから当初の問題は何も解決されていない、つまり解答として成立していない、と批判している。
私は全世界である
この問題に対してオーストリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレディンガーは梵我一如の考えを支持した。「通常の理性では信じがたいことかもしれないが」と前置きした上で、次のように述べた。
通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。… 周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり[注釈 1])という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。 — エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳][12]
シュレディンガーがこの問題に関して述べている主張は大きく二つに絞られるが、一つは時間において現在しかないということ、もう一つはすべての意識がひとつであるということ、である。シュレディンガーはこの点について、おそらく読者(として想定される西洋人たち)はこうした主張を何かの暗喩としてしか理解しないだろうが、私(シュレディンガー)は文字通りの意味でこのことを言っている、ということを繰り返し述べている。
この時間において現在しかないという点について、これは色々な哲学者がしばしば取ってきた立場であるが、シュレディンガーは次のように表現している。
君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。 この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。 — エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳][13]
次にすべての意識がひとつであるという点について、こうした主張をするものは哲学者にもあまり見られないが、シュレディンガーはこうした事が言える背景として主に次の二つのことを強調している。一つは、意識については普通のメレオロジカルな関係、つまり一般的な部分・全体関係というのが成り立たないのだということ。そして次に、意識については普通の数量的関係、つまり例えば一人の悲しみより千人の悲しみの方がより悲しい、といったことは成り立たないのだということ、である。
「私」も消滅している
唯識によれば、「私」は時間的に継続しておらず、一瞬のうちに消滅している。一瞬前の「私」の消滅によって今の「私」が生成され、今の「私」の消滅により一瞬後の「私」が生成される。その結果、右の図の私(●)はその特権的な立場を失い、他の4人(○)と同様に一瞬で消滅する(また「世界」も一瞬で消滅する)。不連続で非同一の「私」を継続しているように感じるのは末那識による幻想だという。
フランシスコ・バレーラは、認知科学の見地からこの非連続の「私」を説明している。
注釈
- ^ 其は汝なり(Tat tvam asi, तत्त्वमसि):「それはおまえである」「おまえはそれである」などとも訳される。 チャーンドーギア・ウパニシャッドの中に残されている、紀元前8世紀のインドの哲学者ウッダーラカ・アールニの言葉。後のヴェーダーンタ学派において「我は梵なり」と並ぶ二大格言のひとつとされた。(『わが世界観』p.102 の訳注より)
出典
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