戯志才
(?~197?) |
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戯志才は世俗の人々とは付き合おうとしなかったが、建安元年(一九六)に曹操が献帝を推戴したとき、荀彧が計謀の士として推薦したので、その謀臣となった《荀彧伝》。曹操は彼には見所があると思って非常に尊重したが、惜しくも早くに亡くなった《郭嘉伝》。曹操は「戯志才が亡くなってしまい、一緒に計画を立てられる相手がいなくなってしまった」と歎いている。荀彧は代わりに郭嘉を推挙した《郭嘉伝》。 司空府に軍師祭酒が設置されたのは建安三年正月、呂布が滅ぼされたのは同年十二月のことだから、初めて曹操に会ったとき軍師祭酒となり、呂布の討伐にも参加した郭嘉の出仕がやはり建安三年だったのは間違いない。戯志才が没したのはその前年と考えられよう。郭嘉は袁紹や司徒府に歴仕していたとはいえ、戯志才の死後ようやく推挙されたものであり、つまり戯志才一人がいれば郭嘉は不要だったわけである。郭嘉の上をゆく才知の持ち主だったのだろうが、残念ながら戯志才の計略は伝わっていない。 |
戯志才
戯志才 | |
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後漢 謀士 | |
出生 |
生年不詳 豫州潁川郡 |
拼音 | Xì Zhìcái |
主君 | 曹操 |
戯 志才(ぎ しさい、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。豫州潁川郡の出身。
生涯
世俗に背を向けた生き方をしていたが[1]、荀彧によって曹操に策謀の士として推挙される。曹操からもその才能を重んじられていたが、早逝した。
彼の死後、曹操は荀彧に「戯志才が亡くなり、計略を相談できる者がいなくなった。元より汝南・潁川は優れた人物の多い地だが、誰か彼の後を継げる者はいないだろうか」と手紙を送り、新たに荀彧の推挙を受けた郭嘉がその後を継いだ。
小説『三国志演義』には登場しない。
出典
脚注
- ^ 『三国志』魏書 荀彧伝注『荀彧別伝』
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