八甲田山 (映画)
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『八甲田山』(はっこうださん)は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を原作とする日本映画。橋本プロダクション・東宝映画・シナノ企画の製作で1977年に公開された。
注釈
- ^ ソリによる荷物輸送はもともと平坦な道向きとされ、坂道(上りと下りの勾配)には弱い。よって、行軍隊の荷物をソリに載せて自分たちで運ぶ方法は適切でなかったといえる。大隊長の山田少佐による行軍計画変更「(予備演習の結果が良好だったことを受けての)大隊本部が随行する総勢210名の中隊編成へ大量増員」は・特に行李輸送隊へ多大な負担を強いることとなり、ソリを牽引・後押しした隊員は汗だくになって体力を消耗し「大量遭難」という悲劇へつながっていった(参加人員が大きく膨れ上がり荷物が倍増したことでソリは重くなり、田代までの道中は幸畑以降で積雪が増えて上り勾配が延々と続き、これが「ソリが前に進まず・本隊より後方へ2km以上も大きく引き離されたため行軍全体に大幅な遅れが生じ、日没前に田代へ着けなくなって途中で露営する」一因となった。神田大尉による「ソリ後押し援護要員派遣」も焼け石に水で、援護要員の負担も並大抵のものではなかった)。
- ^ 例として、「雪壕を掘っての露営」を岩木山の雪中行軍本番で実践していたため、八甲田山雪中行軍本番でも組み入れていた。
- ^ 徳島大尉は「五連隊は青森から田茂木野~田代~増沢の一本道経由で三本木へ向かう」と(五連隊の行軍計画書提出前から)既に予想していた。門間少佐と児島大佐へ行軍計画書を提出した時は「弘前発の三十一連隊がこのような長距離行軍(五連隊と八甲田ですれ違うべく十和田湖経由で大迂回するしかない経路)となったのは、神田隊と八甲田山中ですれ違う約束をさせた連隊長殿の責任であり、この計画を無謀と思うなら五連隊との約束を考え直してほしい。自分は旅団司令部で冬の八甲田を安請け合いしたことを後悔している。調査をすればするほど恐ろしく、日本海と太平洋の風が直接ぶつかる八甲田は、冬の山岳としてはこれ以上ない最悪の地帯。今後50年・100年経っても冬の八甲田は頑として人を阻み、通行を許さないだろう。よって「八甲田雪中行軍はやめるべき」との意見具申を考えたが、五連隊は神田大尉を指揮官として冬の八甲田へ挑むので、自分も八甲田へ行かねばならない」と述べている。
- ^ 勉強会冒頭では「五連隊はあなた(神田大尉)のような熱心な方がいるが、こちら(三十一連隊)の準備はまだです」と前置きしたうえで、「もし自分が八甲田(雪中行軍)をやるとなれば、編成は小隊編成となるだろう」と述べ、「当初から小隊編成で行軍する方針を決めている」旨を強調した。神田大尉は冒頭「自隊(五連隊)は小隊・中隊どちらの編成にするか現時点ではっきり決まっていない」と述べ、徳島大尉の話を聞いてから「我が五連隊も小隊編成にする」と一度は決めたものの、その考えは上官・山田少佐に覆されて「中隊編成」へと膨らみ、悲劇のきっかけとなっていった。
- ^ 弘前の自宅へ神田大尉を招いての勉強会では、「師団の参謀長・旅団長は『雪中行軍はあくまで各連隊の責任で実施すべし』と言っている。上から命令されれば装備・予算など色々ねじ込まれるから」と述べると共に、初の山岳雪中行軍となる神田大尉へ「本番前に予備演習をする」よう勧めた。しかし五連隊は神田大尉が(徳島大尉からの忠告に基づいて)実践した予備演習とは異なり、本番では(三十一連隊に勝ちたいとする)山田少佐の意向により・行軍参加人数とソリ台数が予想より大幅に膨れ上がることとなり(予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず)、これが「大量遭難」という悲劇につながっていった。
- ^ 雪中行軍経験に乏しい五連隊(神田隊)は徳島大尉のような知識を持ち合わせていなかったため、ほとんどの隊員が水筒に水を隙間なく入れ満水状態にして出発。このため小峠へ着くまでに飲料水は(携帯食糧共々)凍結してしまい、これが「脱水症状による疲労」を引き起こして悲劇(大量遭難)へつながった。
- ^ 徳島隊の結団式では、各隊員が着用する防寒靴など各種装備の見本が展示された。
- ^ 具体的には、増沢から田代・馬立場・賽の河原にかけての八甲田東南山麓と推測するとし、実際の文面には「我が三十一連隊が八甲田で危険かつ困難な状態に陥った場合、どうか武士の情けでお助けをよろしくお願いします」と書いた。
- ^ ただし元山峠から銀山への下り坂で転倒し負傷した松尾伍長のみ、(この先の三本木より弘前へ中途帰営させる前に)現地の民家へ宿営させている。
- ^ 増沢から田代への道中では大規模な雪崩に巻き込まれそうになったが、それでも徳島隊一行は諦めず八甲田へ向け前進した。
- ^ 徳島隊は「雪濠を掘る深さは身長の倍となる4mにすれば寒さと暴風雪を十分しのげる」旨の情報を本番前に地元住民より得ていた。一方で神田隊は往路・平沢での露営時に(徳島隊の半分となる)2mの深さまでしか雪濠を掘っておらず、暴風雪や寒さを十分しのげる状態とはいえなかった。
- ^ 徳島大尉が「装備を極力軽くした」理由は「自隊の安全を最優先し、万一の悪天候遭遇時でも行軍に参加する隊員全員の命を守る」ためだった。神田大尉もそれらを本番前に徳島大尉より教わっていたが、上官・山田少佐の圧力に屈して本番では「自隊の安全を最優先する」原則が守れず、「倒れた隊員を助ける隊員が共倒れする」事態が重なって「大量遭難」という悲劇を招いた。
- ^ 黙祷する際の構えは隊員の階級により異なり、小隊長以上は「軍刀を抜いての構え」、兵卒と下士卒は銃を構えて「捧げ筒」。従軍記者の西海勇次郎は脱帽する形で黙祷した。
- ^ 後に徳島大尉は道中の案内人に「八甲田で見聞きしたことを口外してはならない」と諭している。
- ^ 徳島隊が八甲田を越えて田茂木野へ着いたのは1月30日午前2時過ぎで、(捜索隊の指揮を執っていた五連隊の木宮少佐へ「宿舎の必要があるので設営指揮官にお会いしたい」と申し出たものの)この日は現地の民家が五連隊(神田隊)の捜索隊詰所(現地指揮本部)や遺体安置所として使われ宿営の空きが無かったため、2時間休憩しただけで青森市内へ出発。同日朝7時20分に青森市内へ到着後は「完全休養日」に充当して市内へ滞在・宿泊した。翌31日に弘前へ向けて行軍を再開し、浪岡での宿営を経て2月1日に帰営。(悪天候で田代温泉への道を見つけられず、雪濠を掘って露営したため)予定より1日多い11泊12日の雪中行軍を無事完遂した。なお当初は「青森からは梵珠山を踏破して弘前へ帰営する」計画だったが、五連隊の遭難発覚後に梵珠山踏破は中止し、羽州街道(現在の国道7号)を歩いて弘前へ帰営する形と変更している。
- ^ 八甲田手前の三本木では、殆どの隊員が新品の藁沓・かんじきや指先の凍傷防止に用いる唐辛子などを購入している。
- ^ 事前に長谷部一等卒へ宛てて「八甲田雪中行軍は一歩間違えば生きて帰れない雪地獄にはまり込むから、出発前に叔母の家で別れがしたい」旨の手紙を出し、叔母の家で弟と会う約束をしていたが、斎藤伍長は行軍出発日が迫っていたため弟とは直接会えず、「自分は(徳島大尉殿の部下として)岩木山雪中行軍にも参加したことがあるので・今回の八甲田雪中行軍に志願しないわけにはいかないが、弟・善次郎には『五連隊の状況を考え、今回の八甲田雪中行軍には参加しないほうがいい』と言ってほしい」旨の伝言を叔母に依頼し汽車で弘前の三十一連隊屯営へ戻った。兄からの手紙を読んだ長谷部一等卒は、神田大尉より外出許可を得て叔母の家に行ったものの・兄に直接会えなかったことから神田大尉の自宅へ出向き、風呂を沸かしながら神田大尉へ兄からの伝言内容を報告。神田大尉より「もし怖いなら雪中行軍に参加しなくて良い」と言われても「兄は心配性なだけ。小峠までの予備演習は雪の中の遠足だったので本番も大したことない。自分は神田大尉殿の従卒なので、自身が雪中行軍に出なければ中隊長殿に失礼となる。五連隊は八甲田山中で三十一連隊とすれ違うから、その時は久々に兄(斎藤伍長)と会える」との期待を込め、今回の八甲田雪中行軍に参加する旨を自ら決心した(だが兄の斎藤伍長は「雪の中の遠足」という言葉を最も危惧しており、その不安は本番で的中してしまう)。
- ^ このことを徳島大尉に伝えるが、「弟の死は思い過ごしで、疲労による幻覚だ」と言われている。
- ^ 喇叭の音色を聴いた中里の住民は、日の丸の小旗を振って徳島隊一行を出迎えた(日の丸の旗は八甲田手前の宿営地・増沢集落でも地元住民が掲揚し、「青森歩兵第五連隊・弘前歩兵第三十一連隊御休憩所」看板も地元住民の揮毫により同時掲示)。
- ^ この時、児島大佐も「兵卒6名で残りが下士官・見習士官である」ことに疑問を持つ。
- ^ 徳島大尉と神田大尉は共に「周到な準備をしたうえで八甲田雪中行軍を実施したい」と答えた。しかし徳島隊(三十一連隊)と神田隊(五連隊)は事前準備期間に大きな差が生まれ、徳島隊は事前準備に(年をまたいで)1か月かけたが、神田隊の事前準備期間はわずか1週間足らずで・かつ急ごしらえの参加者人選となり、この差が両隊の明暗を分けることになった。
- ^ 田代温泉&田代元湯・および史実の「田代新湯」はもともと目立たない(冬期間は見つけにくい)小規模の温泉だったため、210名の大所帯となった五連隊の宿営を受け入れる容量はそもそも持ち合わせておらず、行軍事前調査での「田代についての下調べ」は地元民(幸畑・田茂木野在住者)より話を聞く程度にとどまっていた。
- ^ 作右衛門は行軍事前調査の時(「1月末か2月初めに、田茂木野村民でここから田代を経て増沢を通り、三本木へ行った者はいないか?」という神田大尉からの質問に対し)「そんな馬鹿者はいない。1月と2月の八甲田は雪が深くて風も強く、とても歩けたものではない。これまでに田代を目指した地元民(幸畑および田茂木野の者)が何人も吹雪に呑み込まれ賽の河原で命を落としており、冬の八甲田は一度踏み込んだら生きて帰れない・白い地獄だ。もし雪中行軍するなら普通の兵隊靴では深い雪に潜り込むから、履物は丈夫な藁の雪沓が良い。案内人については、する側・される側いずれも人によりけりだ」と神田大尉に説明。本番当日に田茂木野で小休止をしていた五連隊へも村人を引き連れて駆け寄り、「案内なしで田代まで行くのは無理だ。山は毎日吹雪だし、田代までは広い雪の原っぱで目標物は何もない」と無謀な行軍をしないよう説得したが大隊本部の山田少佐に退けられ、最後は「よりによって山の神様の日に、命知らずの馬鹿な真似にもほどがある」と悪天候下での無謀な行軍強行を嘆いた。
- ^ 徳島大尉宅を後にする際は「これから本番まで準備に忙殺され徳島大尉と会えなくなりそうなので、次回は雪の八甲田のどこかで会う」ことを約束したが、本番での再会は(五連隊が大量遭難を引き起こし、指揮官の神田大尉がその責任を取って自決したため)叶わなかった。
- ^ 予備演習終了後に山田少佐へ(「大隊を繰り出せるのは、今回実施した予備演習時のような好天に恵まれた場合の話」と前置きしたうえで)行軍規模を小隊編成としたい理由を「三十一連隊の真似ではなく、人員の増加は行李輸送隊の負担を増やすばかりで、また連隊相互の約束から徳島隊も少数かつ長期日程にせざるを得なかったからだ」と説明したが、演習の結果が良好であったこと・小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝って自隊の面子を保ちたいことなどを理由に山田少佐には受け入れられなかった。
- ^ だが神田隊の出発日は徳島大尉が手紙を書いた時点で決まっておらず、神田隊が出発した1月23日に徳島隊は宇樽部で宿営していた。
- ^ 山田少佐の意向により参加人員が「大隊本部随行の総勢210名」に膨れ上がったため・連隊長室には行軍参加隊員が全員入りきらず、結団式には小隊長以上の隊員と随行大隊本部員しか出席できなかった。また結団式後も部下は行軍用品注文などの電話応対に追われ、神田大尉の説明に耳を傾けている余裕はなかった。服装・装備・履物は防寒性に優れたものでなかったうえ、本番では小峠到着段階で多くの隊員が携行食糧や飲料水(水筒の水)を凍結させてしまい・凍って食べられなくなった食糧は雪中に捨てたため、これが「寒さ・疲労・絶食による遭難」へとつながっていった。
- ^ 携帯懐炉は当時高価だったため、将校・上官より低賃金だった下士卒は(自分の稼ぎで)満足に懐炉を買えず、こうした「階級による隊員の賃金格差」も悲劇の一因となった。
- ^ もともとの計画では、(「小隊編成でないと冬の八甲田は越せない」ことを徳島大尉宅での事前勉強会で確信したため)八甲田山中を小隊編成かつ案内人付きで行軍することとしていたが、山田少佐が独断で「大隊本部随行と大量増員」を断行し案内人雇用を却下した。この他、悪天候による中止具申を無視されたり、ソリ隊(輸送隊)が遅れていることからソリを放棄して各隊員に荷物を背負わせるとする上申も退けられた。方位磁石はやがて針が凍結して使えなくなり、復路は地図を頼りにほぼ勘に頼っての行軍となった。
- ^ 汗だくになったソリ隊員は、幸畑での小休止時に暑さのため厚手の防寒外套を脱ぎ・以降は薄手の上着でソリを牽引。最終的に深い雪で立ち往生する平沢手前まで「大汗をかき暑かったため薄着でソリを牽引」したことが「激烈な寒さによる凍死」につながっていった。
- ^ その際「田代到着と同時に喇叭を吹奏し、悪天候で喇叭吹奏不可能の場合は伝令を直ちに本隊へ帰らせる」よう藤村曹長へ指示している。なお中橋小隊らに対して行った「田茂木野~平沢間でのソリ隊援護指示」は当初計画に無かった(予定外の)行動で、「山田少佐の意向により参加人員が大きく膨れ上がったため・荷物量とソリ台数が増え重くなったこと」と、「大量に積もった新雪に阻まれて重いソリが前に進まず・本隊より大幅に遅れていた」ことから、「後押し要員を増やして遅れを少しでも回復させ、ソリが本隊に追いつけるようにする」ために行った。だがそれでも重い荷物を積んだソリは深い雪と上り坂による摩擦抵抗が大きく・横滑りまでは防げなかったためソリ前進は困難を極め(後押し要員を増やしても遅れが回復せず本隊に追いつけない状況は変わらず)、ソリ隊を援護した隊員も大汗をかき、かつ馬立場でようやく小休止できると期待していた下士卒も「遅れているソリ隊援護」という予定外の任務へ駆り出され体力を消耗していった。
- ^ 当時は満月で月明かりが雪に反射していたため隊は日没に気づかず、「まだ先に行ける」と判断して田代への行軍を20時頃まで続けた。雪濠では「わずか2km先にある田代への道を見つけられない」事態に苦悩し、猛吹雪や地吹雪により周囲の視界がゼロとなる「ホワイトアウト」と・寒さや日没により方向感覚を失って同じ場所を回り続ける「リングワンダリング」の恐怖を実感した。藤村曹長へは本番前に「田代への道順」を教えていたが、本番は「ソリ隊遅れ」・「悪天候」・「日没」など予想外の事態が重なり、(事前に勉強していた)田代への道順を藤村曹長が猛吹雪と暗闇で見失うことは神田大尉にとっても想定外だった。
- ^ 復路・馬立場での「これより中の森・按の木森を経て賽の河原を越え、大峠・小峠の先の田茂木野へ向かう」が、神田大尉が最期に発した出発号令となった。三十一連隊の徳島大尉より「賽の河原で神田大尉らの遺体を見つけた」旨の報告を受けた捜索隊指揮官の木宮少佐は、「行軍指揮官の神田大尉は今回の遭難の責任を感じたのか、凍えきった体に最後の力を振り絞り、見事に舌を噛み切っていた」と返答している。
- ^ だが神田大尉は「大隊長殿には大隊長殿のお考えもあるようだ。三十一連隊の出発が迫っているので、たとえ2個や1個小隊になったとしても行軍に最適となる参加者人選を直ちにする」よう指示。事前準備期間が十分確保されず余裕のない状態での急ごしらえ人選を迫られ、伊東中尉ら部下の不安は解消されないまま「大隊本部が随行し、行軍参加人数が予想より大幅に膨れ上がる」こととなった。
- ^ 神田大尉は「案内人の件は決定していた事項ではない。色々と困難はあるが、それを一つひとつ乗り越えることに今回の雪中行軍の意味がある」と返答。伊東中尉ら部下の不安は解消されず不完全燃焼のまま「案内人なしで猛吹雪の八甲田へ突入」する形となり、これが「大量遭難による五連隊全滅」のきっかけとなった。田茂木野以降の行軍では神田大尉が江藤伍長に前方偵察をさせると共に・手元の地図を見ながら部下に針路を指示したが、猛吹雪の中・かつ夜間カンテラで手元を照らしてもらいながらの地図読みは困難を極めた。
- ^ 神田大尉は「雪明かりとはいえ夜の道であり、そのうえ鳴沢は地形が複雑なので一度峡谷にはまり込めば脱出が難しい。でもこの行軍は自ら先導して田代へ着けるようにする」と返答。のちに山田少佐が「将校偵察として直ちに田代へ斥候せよ」と神田大尉に命じて本隊指揮を代行したが、本隊は猛吹雪の中で神田大尉に追いつけず・かつソリ隊の大幅遅れで田代到着前に(馬立場到着時点で)日没となったため、途中の平沢で雪濠を掘っての露営を余儀なくされた。この時の夕食は火を熾してスコップの上で焼いた餅と生煮えの米のみで到底満足な量とはいえず、水筒の水も凍結していたため解かさないと飲めなかった。炊事班の雪濠は大隊本部と兼用しており、平釜で炊事しようにも点火に1時間近くを要したうえ、炎の熱で周囲の雪が解けて釜が傾くなど足場が不安定だったため困難を極めた。加えて総勢210名全員が平等に暖をとることはできず、火の近くにいる一部隊員が交代で暖をとるだけにとどまったため・寒さを十分しのげる状態とは言い難かった。また周囲の積雪は5mほどあったため、雪を掘ってもなかなか地面に行き当たらず、最も深くて2.5m掘るのが精いっぱいだった。
- ^ 賽の河原へ向かった神田大尉の集団は経路を比較的正確に進んでいたが、猛吹雪の直撃を受けていた。その一方、駒込川へ向かった倉田大尉・伊東中尉らの集団は本来の経路から外れていたものの猛吹雪の直撃を免れたため、救助隊が来るまで体力を温存できた。
- ^ 平山一等卒や下士卒が「田代で温泉に入って一杯のはずがこんなことか・・・」と不満を漏らすと、「大隊本部が(神田大尉に追いつけず)立ち往生したので、神田大尉殿がわざわざ露営地を探し、伝令で導いてもらったからだ」と雪濠を掘った理由を述べた。
- ^ 実際には平山一等卒が付き従ったが途中で落伍する。
- ^ 田代到着前に日没を迎えたため途中で露営した平沢では、田代で飲む予定だった酒が異臭を帯びて飲めなかった。
- ^ 携帯食糧を雑嚢に入れたら凍ってしまうため、自身の食糧は油紙に包んで体に巻き付け、体温で凍結を防止した。
- ^ 江藤伍長が微かに言った「神田大尉殿」という言葉をもとに救助隊が周辺を捜索した結果、江藤伍長発見場所から100m先で全身が凍結した神田大尉を発見・収容している(軍医が気付け薬を注射し蘇生しようとしたものの・皮膚まで凍結していて針が刺さらず、次に口から薬を飲ませようとしたが神田大尉は結局息を引き取った)。
- ^ 往路・大峠で小休止時は渡辺伍長に「田代はどちらの方向でありますか?、向こうは白い雪で何も見えないのですが・・・」と聞き、夏場とは180度異なる環境に戸惑っていた。
- ^ 先に提出・受理された三十一連隊の行軍計画書を木宮少佐ら同席の下で閲覧した時は、「徳島隊の長距離行軍計画は強引かつ無謀すぎ、夏場でも容易ではないから成功するとは思えない」と皮肉った。のちの良好だった予備演習の結果が三十一連隊への対抗意識に火をつける形となって、大隊本部が随行する総勢210名の大所帯編成につながり、大量遭難のきっかけとなった。神田大尉から「行李輸送隊の負担を減らすべく小隊編成にしたい」旨の申し出を受けた時は、「三十一連隊が小隊の240km。対する我が五連隊は同じ小隊編成でも行軍距離は四分の一にも満たない50km。もし徳島隊の行軍が成功すれば踏破距離に優劣がはっきりつきすぎる」と返答し、「あくまで中隊編成と大隊本部随行」の方針を崩さなかった。
- ^ 本番での行軍隊は、先頭で雪を踏み固めて行軍経路を開拓する「かんじき隊」・中心となる神田大尉率いる本隊(中隊指揮班と第1~第5小隊)・随行する「大隊本部」・荷物を積んだ「ソリ隊(ソリ1台につき牽引担当3人・後押し担当1人の計4人体制。8台で計32人)」の4部門で構成(かんじき隊とソリ隊は最も負担が大きいため、神田大尉の指示で数kmごとに人員交替)。本隊はかんじき隊が踏み固めた道を歩き・重い荷物運搬はソリ隊に任せていて身軽な状態だったため、これが雪山の危険性を軽視する隊員増加と特定部門への負荷集中へとつながっていった。
- ^ 計画書を見た津村連隊長は当初、大隊本部随行で指揮系統の乱れを招かないか不安を感じた。だが山田少佐より「今朝未明(1月20日早朝)、三十一連隊(徳島隊)は既に弘前を出発した」との報告を受けると本隊の指揮は神田大尉が執る旨を再確認したうえで計画書に署名捺印。連隊長の不安は解消されないまま雪中行軍実施許可が出され、その不安は的中してしまう。
- ^ この時、田茂木野村長の作右衞門に自慢した山田少佐の方位磁石は、駒込川の峡谷に迷い込んだところで針が凍結して使用不能になっている。
- ^ この一件に関しては、神田大尉が山田少佐に案内人を事前に頼んでいたことを報告していなかったことも一因である。
- ^ 五連隊はもともと人手による荷物運搬を想定していなかったため背負子を持参しておらず、ソリ放棄後は荷物を縄で背中に直接くくりつけるしかなかった。このため歩行時は重心が上にくる形となって不安定さが増し、これに極度の疲労・寒さ・ソリ牽引中にかいた汗の凍結も加わり行李輸送隊員は次々と遭難落伍していった。
- ^ 往路・馬立場での小休止時に進藤特務曹長が「自分は夏場に一・二度行ったことがあるのでよく覚えているが、馬立場からはもう2kmで田代へ着く」と言ったことに対する「2kmか。もう一息だな」という山田少佐の返答が、悪天候でも田代行きにこだわるきっかけとなり、やがて鳴沢付近で道に迷い、青森市内の屯営へも自力で帰れなくなる悲劇へつながった。
- ^ もともと五連隊は服装・装備に損傷がないかの点検をさせる時間を設けず、神田大尉が結団式後に「防寒外套・軍足・手袋は必ず予備を持参し、凍傷防止のため濡れたら交換する」よう部下へ指示していたにもかかわらずほとんどの隊員は替えの新品を用意していなかったため、着用していた装備・服装・防寒靴は深夜の無理な移動で損傷がひどくなり、傷んだ隙間から冷気が直接体を貫き凍傷を負う隊員が続出した。神田大尉からの注意事項伝達も210名という大所帯では隅々まで行き渡らせるのが困難を極め、本番前に各小隊長や見習士官を経由して下士卒へ伝達する方法を採ったものの、神田大尉からの伝達事項を遵守しなかった雪山に不慣れな隊員も多かったことが本番での悲劇につながっていった。
- ^ 救助隊は山田少佐・倉田大尉・江藤伍長・伊東中尉・村山伍長ら12名の生存者を発見・救助したが、うち1名は救出後に死亡した。
- ^ このまま川の中を歩いて足を濡らせば凍傷を負って自力歩行不可能となる危険性があった(駒込川本流も青森市街へ向かう途中に滝があるため行き止まり)。実際、(「中隊はこれより、この斜面を登る。進め!」という神田大尉の出発命令で始まった)駒込川からの崖登りは極寒と猛吹雪の中で2時間以上も続き、この時点で半数以上の隊員が冷たい雪氷に手先の感覚と体力を奪われて滑落・骨折。その後は崖下で凍死している(滑落する隊員の悲鳴は暴風雪にかき消されて聞こえず、ほとんどの隊員は滑落した仲間を助けられず置き去りを余儀なくされ、雪氷に覆われた冷たい崖をひたすら登り続けるしかなかった)。崖上まで登りきった隊員も猛吹雪にさらされ、極度の疲労も重なって前進には数時間~数日を要した。
- ^ 駒込川方面を偵察した渡辺伍長率いる先発隊は戻って来ず・本隊は「出発後に途中で会えるだろう」と考えていたが、その後渡辺伍長らは捜索していた救助隊により・賽の河原付近で重なり合うように凍死しているのを発見されている。
- ^ のちに救助隊ソリに乗せられてたどり着いた田茂木野で山田少佐は(ソリから起き上がって土下座したうえで)「今回の大量遭難は自分があまりに冬山や雪の知識が足りなかったのが原因で起きたもので、その全責任は自分にある」と津村連隊長に謝罪している。
- ^ (直接の指揮官である)神田大尉に対しては、「自分は大隊本部付であり、直接の指揮官にこれ以上どうこう言えないので、大隊長(山田少佐)殿に直接意見具申する」と述べた。
- ^ その根拠として「ブナの枝が2本切り落としてあることから・人の手が加えられていると推測されるので、このブナを右に見る形で進めば田代へたどり着ける」と(上司の山田少佐へ)説明した。
- ^ 原田君事のホームページには、体験記として「東宝映画『八甲田山』の撮影のとき、体感温度零下30度、雪の中でフンドシ一丁になって、狂い死にのシーンを演じたとき、肌は一瞬にしてこげ茶色になり、歯はかみ合わずぶるぶると震えていたが、監督の「よーい!」の一言で震えはピタっと止まった事を覚えている」との記述がある。
- ^ 「兵卒が矛盾脱衣で裸になって死ぬシーン」、「小便をしようとしてそのまま凍死するシーン」、「行軍が道に迷って同じ所を周回してしまうシーン」など。
- ^ 「気象に対する想定の甘さ」、「指揮系統の乱れ」、「凍傷など極地での疾病への無理解」、「希望的観測からの取り返しのつかない失敗」等。
- ^ 神田大尉に自己を重ねて、上役に強く言えない辛さと部下を率いる責任感から来る悲哀や難しい立場に共感したという。
- ^ 『ジョーズ』のスティーヴン・スピルバーグは30億円、『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスは配当60億円[23]。
出典
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- ^ 「破之壱 『ゴジラVSビオランテ』」『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾、双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日、85頁。ISBN 4-575-29505-1。
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- ^ 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年、226–235頁。ISBN 978-4-8003-0698-2。
- ^ 「『専務会を中心に前向きの会社経営』 トップインタビュー 松竹社長・大谷隆三 ききて・『財界』編集長・針木康雄」『月刊ビデオ&ミュージック』1977年7月号、東京映音、19頁。
- ^ 春日太一『日本の戦争映画』文藝春秋〈文春新書1272〉、2020年、148-150頁。ISBN 978-4-16-661272-7。
- ^ 『八甲田山』 4Kリマスターブルーレイ 東宝オフィシャルページ
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