1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 08:50 UTC 版)
「シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯」の記事における「1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合」の解説
1290年のゲルハルト1世の死後、彼の息子たちはホルシュタイン=イツェホーおよびシャウムブルクを3つに分割した。3男のアドルフ6世はホルシュタイン=ピンネベルクとエルベ川南側のシャウムブルクを、次男のゲルハルト2世はホルシュタイン=プレンを、4男のハインリヒ1世はホルシュタイン=レンズブルクをそれぞれ得た。長男のヨハンはハンブルク大聖堂の律修司祭となった。 ゲルハルト2世の死後、息子のゲルハルト4世とその異母弟ヨハン3世(寛大伯)はホルシュタイン=プレンを共同統治した。1316年、兄弟はホルシュタイン=キールのヨハン2世(1321年没)の領地を戦により奪い、ヨハン2世の息子たちは殺された。ヨハン3世はプレン伯領を1350年に再び統治する前、父ゲルハルト2世(盲目伯)のいとこであるヨハン2世(隻眼伯)からキールを奪い取った。ゲルハルト4世はホルシュタイン=プレン全体を統治し続けた。 ヨハン3世の甥で、ゲルハルト4世のあとを継いだゲルハルト5世が1350年に死去した後、プレン伯系は断絶し、ヨハン3世が再びそれらを領した。息子のアドルフ9世(7世)は、1359年よりキールとプレンを領していたが、1390年に後継者なく死去し、ニコラウスと甥のアルブレヒト2世およびゲルハルト6世(1397年まで共同統治)が、ホルシュタイン=キールおよびホルシュタイン=プレンを継いだ。
※この「1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合」の解説は、「シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯」の解説の一部です。
「1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合」を含む「シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯」の記事については、「シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯」の概要を参照ください。
- 1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合のページへのリンク