齊藤哲也 (競輪選手)とは? わかりやすく解説

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齊藤哲也 (競輪選手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/16 21:17 UTC 版)

齊藤 哲也(さいとう てつや、1959年4月11日 - 2018年11月2日[1])は、日本競輪選手会兵庫支部に在籍していた競輪選手日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第45期生。ホームバンクは甲子園競輪場。師匠は坂東利則(28期)。

経歴

競輪学校は適性試験で合格。同期に松本整佐古雅俊、三ツ井勉ら[注 1]がいた中で、卒業記念レースで優勝。

1980年6月7日小倉競輪場でデビューし1着、及び同開催では完全優勝も果たした。1982年特別競輪(現在のGI)初参加となった日本選手権競輪大垣競輪場)で準決勝進出を果たす健闘を見せる。以後、決勝進出は一度も果たせなかったが、GI、GII1997年ふるさとダービー防府競輪場)まで、常時出場していた。

ところが40歳のとき、悪性リンパ腫を発症。その後は抗がん剤治療を続けながらレース参加していたが、再び発症したため、2003年7月31日に現役を引退せざるを得なくなった。通算戦績1475戦183勝、優勝25回。

現役引退後に移植手術を施し、その後、2006年3月開設のサテライト阪神のアドバイザーとなったが、同年12月18日、3度目の再発と診断され、同職から一時退かざるを得なくなった(2010年4月5日に復職)。

その後、夫人が中心となって生体骨髄移植のための『哲ちゃん基金』[2]を呼びかけたところ、賛同者が現れ、施されることになった。

晩年は2005年より担当していたスポーツニッポンのコラムに、不定期ながら(主にGI開催時に)執筆者として登場していた。

2018年11月2日、59歳没。

エピソード

  • 1996年頃から、1998年3月の最終回まで、西宮・甲子園ケイリンアワーのオープニング映像に登場していた。しかし、その模様は甲子園開設記念で、吉岡稔真の番手に齊藤がつけながらも、交わすどころか後続にも抜かれて3着に終わるという、いわゆる『ハコ3』のシーンだったことから、「あれは恥ずかしいシーンやからいい加減やめてほしかったわ」と嘆いていた[3]
  • 弟弟子には、澤田義和らがいる。

脚注

注釈

  1. ^ 2020年5月時点で、松本はGI最年長優勝記録(45歳と0か月)保持者、佐古は事実上の現役最年長選手、三ツ井は最年長勝利記録(64歳と2か月)保持者である。

出典

  1. ^ 【小倉GI競輪祭】検車場から(22日) - 競輪スポニチ、2018年11月23日
  2. ^ ☆コバ ケンヤデスケイリンデス☆ 2007年3月14日付記事
  3. ^ 2006年某日、サテライト阪神にて本人談より。

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