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高太文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/17 07:57 UTC 版)

高 太文(コ・テムン、: 고태문Ko T'aemun / Go Taemun1920年1月10日 - )は在日朝鮮人柔道家プロレスラー。一時、北朝鮮の最高指導者金正日の愛人「コ・ヨンヒ(高容姫)」ではないかといわれた高春行(コ・チュンヘン、: 고춘행1950年3月11日 - )の父。日本での通名は高山州弘、リングネームは大同山又道

人物略歴

日本では柔道家((講道館六段とされる)として知られたが、後に大阪でプロレスラーとなった。日本のプロレス草創期、1956年(昭和31年)2月に新団体「東亜プロレスリング協会」を旗揚げしたことでプロレス史に名を残した。

大同山は当初より朝鮮民族であることを自ら誇っていた[注釈 1]。しかし、日本タイトルを賭けて行われた同年10月15日から10月24日のウエート別統一日本選手権大会において芳しい成績を収められなかった[注釈 2]。この試合で戦績を残せたのは力道山率いる日本プロレスだけで、敗退した他団体(東亜プロレス含む)は翌年までに活動停止し、やがて消滅してしまう。彼は自団体と命運を共にし、プロレスそのものから引退した。

1961年5月、家族とともに北朝鮮に帰還。北朝鮮に渡ってからは柔道の指導者となり、同国の柔道の発展に力を尽くした。

子女

長男 高勝恩 コ・スンオン(北朝鮮国家体育委員会柔道指導員)、長女 高春行 コ・チュンヘン、次男 高勝方 コ・スンバン(平壌演劇映画大学映画技術教員)、三男 高勝海 コ・スンヘ、次女 高淑煕 コ・スクヒの5人の子がいる。

長女高春行は1950年3月11日生まれで、金正日の内縁の妻高容姫は1952年6月26日生まれである。2人は年齢が近く、ともに大阪出身で、1961年頃に北朝鮮に渡った在日朝鮮人の子女であったうえ、平壌芸術大学へ通っており、さらに高春行(春幸)が手記『柔道愛国者』(2006年)のなかで「金正日との出会い」について綴っているなど経歴が酷似していた[3]。そのため、彼女が高容姫だと誤認されたのである[3]

毎日新聞編集委員の鈴木琢磨は、『金正日と高英姫』(2005年)のなかで「高春行こそ高英姫」と主張していた[4]。しかし、ジャーナリストの高英起による「高容姫=高ヨンジャ説」が発表されると「特集ワイド:北朝鮮後継者・金正恩氏の母の軌跡朝鮮画報に定説覆す情報」(『毎日新聞』夕刊2011年6月23日号記事)のなかで「高ヨンジャこそ高英姫」だとして自説を撤回した。

脚注

注釈

  1. ^ 地元大阪府立体育会館で同年7月9日に開催された木村政彦らとの団体対抗戦(敗退)、同所で9月26日に開催されたユセフ・トルコら相手のタッグマッチ(勝利)などが東亜プロレスが主催した大きな試合である。団体対抗戦での木村政彦戦は最後が反則決着となっている。通常なら当然シナリオ通りの決着なのであるが、本戦が単なる八百長なのかそれとも(このころの柔道出のレスラーの何人かがやった試合のように)シナリオの再現に失敗した八百長崩れなのかは検証が必要である。
  2. ^ 大同山本人はジュニアヘビー級で出場して3位。準決勝まで進むも吉村道明に敗れ、3位決定戦で阿部脩(修)(のち大映俳優、国際プロレスレフェリー)に勝った[1][2]

出典

参考文献 

関連項目




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