馮定
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馮 定(ふう てい、生年不詳 - 846年)は、唐代の官僚・文人。字は介夫[1][2]。本貫は婺州東陽県[3]。
経歴
容儀が盛んで勇ましく、文学の才能があった。于頔が蘇州刺史をつとめていたとき、馮定は蘇州に寓居して、于頔と交友した。のちに于頔が山南東道節度使として襄州に駐屯すると、馮定は驢馬に乗ってその軍門を訪れた。軍吏が報告しなかったため、馮定は留まらずに立ち去った。于頔は恥じ入って、軍吏を鞭打ち、銭50万を載せて駆けつけ、州境で馮定に謝った。馮定は于頔を責める手紙を書き送って、その贈り物を返したことから、于頔はかれを恨んだ。貞元18年(802年)、権徳輿が知礼部貢挙となると、馮定は優秀な成績で進士に及第した。のちに浙江西道観察使の薛苹の幕府で補佐役をつとめ、校書郎となった。ほどなく鄠県県尉となり、集賢院校理をつとめた。馮定は先立って父の喪に服したとき、哀毀のあまり肺病にかかり、復帰後も仕事を休みがちだった。大学士はかれの怠慢を疑い、その職を剥奪した。大理寺評事・太常寺博士・祠部員外郎を歴任した[4][5]。
宝暦元年(825年)、馮定は郢州刺史として出向した。長寿県尉の馬洪沼が馮定が人妻を強奪し、官の欠員分の俸禄を横領したと告発したので、、監察御史の李顧が捜査をおこなった。告発された事実はなかったと判明したが、宴遊に節度がないとして免官された。ほどなく国子監司業・河南少尹に任じられた[6][7]。
大和9年(835年)8月、馮定は太常寺少卿となった。文宗は音楽を聴くにあたって、鄭声・衛声を卑しみ、奉常に命じて霓裳羽衣舞を習わせ、「雲韶楽」を合わせさせた。舞曲が完成すると、馮定は楽工を指揮して朝廷で披露した。ほどなく諫議大夫・知匭使院事に転じた[6][7]。
この年、李訓が甘露の変に敗れて殺害されると、官僚たちはその禍にかかる者が多く、内外では猜疑が広がった。御殿で改元すると、中尉の仇士良が殿門で神策軍の仗衛を用いることを請願した。馮定はこれに反対して中止を求めた。また左右の史を宰相に従って延英殿に入らせて物事を記録させるよう請願した。開成2年(837年)、太子詹事に転じた。開成3年(838年)、宰相の鄭覃が太子太師に任じられると、尚書省で仕事をしようとしたため、馮定は太師は詹事府にいるべきだと上奏した。開成4年(839年)、衛尉寺卿となった。この年、老齢のため引退を願い出て、左散騎常侍として致仕した。会昌6年(846年)、死去した。工部尚書の位を追贈された。諡は節といった[8][7]。
先だって宝暦2年(826年)に源寂が新羅への使節として赴いたとき、新羅の人に馮定の「黒水碑」と「画鶴記」を見せて伝写させた。韋休符が吐蕃への使節として赴いたとき、吐蕃の人に馮定の「商山記」を見せて伝写させた。このようにかれの文名は周辺国にも伝わった[9][7]。
家族
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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