陳伯山とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陳伯山の意味・解説 

陳伯山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 02:32 UTC 版)

陳伯山(ちん はくさん、550年 - 589年)は、南朝陳皇族。鄱陽王。文帝陳蒨の三男。は静之。

経歴

陳蒨と厳淑媛のあいだの子として生まれた。天嘉元年(560年)7月、鄱陽王に封じられた。10月、東中郎将・呉郡太守に任じられた。天嘉6年(565年)12月、縁江都督・平北将軍・南徐州刺史に転じた。天康元年(566年)5月、鎮北将軍に進んだ。光大元年(567年)2月、鎮東将軍・東揚州刺史に転じた。太建元年(569年)1月、召還されて中衛将軍・中領軍に任じられた。太建6年(574年)6月、征北将軍・南徐州刺史となった。太建7年(575年)10月、征南将軍・江州刺史に転じた。太建11年(579年)6月、入朝して中権将軍・護軍将軍の号を受けた。太建13年(581年)1月、開府儀同三司の位を受けた。太建14年(582年)1月、後主が即位すると、中権大将軍に進んだ。至徳4年(586年)1月、鎮衛将軍に進んだ。9月、持節・都督東揚豊二州諸軍事・東揚州刺史として出向し、侍中の位を加えられた。禎明元年(587年)、生母が死去したため、辞職して喪に服した。禎明2年(588年)、再起して鎮衛大将軍・開府儀同三司となった。

禎明3年(589年)1月、死去した。享年は40。まもなく陳が滅んだため、贈諡はなかった。

子女

伝記資料

  • 陳書』巻28 列伝第22
  • 南史』巻65 列伝第55



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陳伯山」の関連用語

1
34% |||||

2
30% |||||

3
14% |||||

4
10% |||||

5
10% |||||

6
4% |||||

陳伯山のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陳伯山のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陳伯山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS