阿蘇惟村とは? わかりやすく解説

阿蘇惟村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 19:17 UTC 版)

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阿蘇惟村
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 不明
死没 応永13年(1406年
官位 従三位
幕府 室町幕府 肥後守護
主君 足利義満義持
氏族 阿蘇氏
父母 父:阿蘇惟澄
兄弟 惟村惟武
養兄弟:惟直坂梨孫熊丸惟成[1]
惟定
惟郷
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阿蘇 惟村(あそ これむら)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将室町幕府肥後国守護

略歴

阿蘇惟澄の長男として誕生。幼少期の名は、丞丸[2]

1351年、祖父・阿蘇惟時の養子となる。足利直冬が九州探題に就任するのと同時期に、阿蘇惟時の支配する阿蘇神領を譲与されている[2]

1362年、大友氏時の推挙により、足利幕府から、肥後守護職を与えられ、阿蘇東殿・武家方大宮司となる。南北朝時代の動乱期には、北朝方・養父・惟時に従って、南朝方・実父・惟澄と対立、抗争を繰り広げた。

正平19年/貞治3年(1364年)の父の死の直前に南朝方の家督をも譲られる。しかし征西府は惟村の相続を認めず、弟・惟武を大宮司に任じたため、兄弟間で争いが起こる事になる。天授元年/応安8年(1375年)に北朝から従三位に叙せられた。

天授3年/永和3年(1377年)に肥前蜷打の戦いで惟武が戦死すると、惟村は幕府より肥後守護に任じられた。

しかし、父の時代に煮え湯を飲まされた北朝側に疎まれて九州探題今川貞世(了俊)や渋川満頼らにその統治を妨害された。また惟武の子・惟政は健在であったため、阿蘇氏の内乱も終息しなかった。

応永4年(1397年)3月30日、足利義満から准三后を与えられる。

応永13年(1406年)、死の直前に子・惟郷に家督を譲って、まもなく死去。

その他

阿蘇氏は、阿蘇本社領のほか、甲佐・群浦・健軍の三末社領を基盤として活動していた。

砥用地方は甲佐社領に含まれており、大宮司の職を辞した後、この地に赴いたと言う。

墓地

砥用町大字早楠にある「早楠神社」にあり、「オタッチョサン」と村人は俗に呼んでいたが、これは「御舘中様」が訛ったものと云う[3]。 神殿直下に室町中期頃の様式とされる宝篋印塔が建っている。

三和の墓地の近辺にも「宝筐印塔」が建っていて俗称で「オタッチーヨ」と呼ばれているが、これは惟村の弟にあたる「惟武」のものではないかという説がある[4]

ちなみに、惟村の子孫で戦国時代の当主阿蘇惟種の墓も「おたっちょさん」と地元で呼ばれており、共通点がある。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 惟直の長男とも。
  2. ^ a b 中世の阿蘇社と阿蘇氏. 戎光祥社. (2019年3月1日) 
  3. ^ 『砥用町史』67-68頁
  4. ^ 『砥用町史』31-32頁

出典

  • 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
  • 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年
  • 下田曲水編『砥用町史』下益城郡砥用町役場、1964年




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