防壁条約の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 05:18 UTC 版)
防壁条約により明らかになったことは、神聖ローマ皇帝カール6世が「彼の」オーストリア領ネーデルラントに対しさほど発言権がないことだった。これはオーストリアを怒らせたが、オランダ軍の費用がオーストリア領ネーデルラントから支払われたことがオーストリアの怒りに油を注いだ。この支払いはマリア・テレジアが支払いを拒否するまで続いた。 1740年から1748年までの戦争ではフランス軍がオランダ軍の駐留する要塞のいくつかを簡単に占領し、防壁の脆弱さが露呈してしまった。さらにオーストリアとフランスが1756年に同盟を締結する(ヴェルサイユ条約)と、防壁条約はその意味を失った。1781年、皇帝ヨーゼフ2世は一方的に条約を廃止した。
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