長谷部虎杖子とは? わかりやすく解説

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長谷部虎杖子

長谷部虎杖子の俳句

車組むや一滴の油地にひらく
 

長谷部栄二郎

(長谷部虎杖子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/19 02:33 UTC 版)

長谷部 栄二郎(はせべ えいじろう、1887年明治20年〉10月28日 - 1972年昭和47年〉12月26日)は、日本神官

虎杖子と号する俳人としても知られる。北海道俳壇の重鎮と呼ばれ、門弟の数は700人以上におよんだ[1]

経歴

1887年(明治20年)10月28日、宮城県亘理郡亘理村の尾形家に生まれる[2]

幼少時に自家が火災で焼失したため、両親とともに1890年(明治23年)、北海道有珠郡伊達村に移住する[2]。これは、本家の尾形弥平が伊達邦成の家臣で、1873年(明治6年)に伊達へ入植していたのを頼ったものであった[2]

やがて成長した栄二郎は、札幌帝国製麻琴似製線工場に就職[2]。そして当別町の神官・長谷部多八の3女である亀菊と結婚し、長谷部家の婿養子となった[1]。また工場勤務のかたわらで俳人として頭角を現し、『北海タイムス』の俳句の選者を務めた[2]

1921年(大正10年)、牛島滕六が句誌『時雨』を創刊すると、これに参画した[3]

沼田栗沢名寄本別と北海道各地の工場長を歴任したのち、1931年(昭和6年)、28年間にわたって勤務した帝国製麻を退職[2]。以降は神職に身を捧げつつ、俳壇での活動を続けた[2]

1937年(昭和12年)6月、廃刊となった『時雨』を改組し、新たに『葦牙』として発刊した[3]

1964年(昭和39年)、北海道文化奨励賞を受賞[4]

1972年(昭和47年)12月26日、85歳で没した[5]

長谷部虎杖子の句碑は、小樽市御膳水宮の隣や、2代目宮司を務めた[6]西当別神社の境内にある。

車組むや 一滴の油 地に開く — 小樽市の句碑
馬よゆこう 涼しきうちの 一仕事 — 西当別神社の句碑

また西当別神社には、神職としての栄二郎を顕彰した碑も建てられている。

脚注

  1. ^ a b 当別町史 1972, pp. 714–715.
  2. ^ a b c d e f g 当別町史 1972, p. 715.
  3. ^ a b 木村 1978, p. 108.
  4. ^ 木村 1978, p. 302.
  5. ^ 木村 1978, p. 257.
  6. ^ 当別町史 1972, p. 719.

参考文献

  • 『当別町史』1972年5月30日。 
  • 木村敏男『北海道俳句史』北海道新聞社、1978年5月30日。 


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