長平の戦いと馮亭の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 15:18 UTC 版)
だが、この事態に秦の昭襄王は激怒し、紀元前262年、宰相の范雎に命じて将軍の王齕率いる軍を上党へ侵攻させた。これにより上党の民の多くが趙国の長平の地(現在の山西省晋城市高平市の付近)へと逃れた為、王齕率いる秦軍はそのまま長平に攻め入り、趙は廉頗を大将とする迎撃軍を派遣し、長平の戦いが勃発した。 馮亭は長平の戦いにおいて、廉頗に代わった趙軍の大将趙括が王齕に代わって白起の率いる秦軍に大敗した際に戦死した。
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