長山直利とは? わかりやすく解説

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長山直利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/20 07:53 UTC 版)

 
長山直利
時代 江戸時代
生誕 承応3年(1654年)
死没 正徳4年(1714年)9月10日
幕府 江戸幕府
氏族 長山氏
父母 父:長山直政
兄弟 直利、直仍、直次、女子(小普請組酒井能登守組之内・白井源之丞の妻)、女子(御勘定・岩出与左衛門の妻)
永井佐治兵衛の娘
直恒、直張、直興、女子(森源六郎長囿の妻)、女子
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長山 直利(ながやま なおとし)は、江戸時代前期から中期の日本武士旗本通称は弥三郎。

略歴

承応3年(1654年)、江戸に生まれる。父は旗本・長山直政[1]

寛文3年(1663年)、神田御殿に召し出され、御小姓組の中根吉兵衛組へ御番入りを命じられ、2百俵を拝領し勤める。寛文12年(1672年)1月、御小納戸を命じられ、50俵を加増された[1]

延宝4年(1676年)、直政の跡目を相続し、同8年(1680年)年5月に徳川綱吉が二御丸へ入った時に二御丸で御小納戸を命じられ、地方知行となり、合計550石を武蔵国幡羅郡のうちに下された[1]

天和2年(1682年)12月18日に浄徳公(綱吉の長男)に付けられ、舘林御先手を命じられ、翌年閏5月21日に当地に呼ばれた[1]

貞享2年(1685年)2月4日、小普請に入り彦坂壱岐守支配となり、同3年(1686年)11月8日、大御番北条伊勢守組に御番入りを命じられた[1]

元禄4年(1691年)12月2日、小川町に925坪の屋敷を拝領した[1]。同11年(1698年)、600俵が地方知行となり、相模国鎌倉郡のうち(現在の鎌倉市関谷)に600石を下された[1][2]。同13年(1700年)1月12日、武蔵国埼玉郡のうちに200石を加増され、合計1350石となった[1]

宝永6年(1709年)10月12日、松前伊豆守支配となった[1]

正徳4年(1714年)年9月10日に病死した。法名は覚性院浄宜堅亮[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 諸家系譜”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2022年12月28日閲覧。
  2. ^ 江戸時代に今の鎌倉市関谷を統治していた旗本の長山氏について知りたい。”. 国立国会図書館. 2022年12月28日閲覧。



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