近藤巨士とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 近藤巨士の意味・解説 

近藤巨士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/12 09:42 UTC 版)

近藤 巨士(こんどう ひろし、1930年昭和5年)4月15日 - 1952年(昭和27年)5月6日)は昭和時代学生運動家法政大学文学部哲学科3年生。戦後学生運動における最初の犠牲者。

略歴

1930年(昭和5年)4月15日、北海道に生まれる。法政大学に入学。教養部時代に文学部委員長、ついで自治会副委員長となる[1]。反戦学生同盟に入り、1950年(昭和25年)にアメリカ占領軍が進めたレッド・パージの反対闘争に参加した。正しい認識と正しい実践の間で思い悩む哲学青年だったという[1]

1952年(昭和27年)5月1日の第23回メーデーにおいて全学連のデモ隊に参加、皇居前広場で警官隊と衝突して重傷を負い、慈恵医大病院に入院する。警察の取調べを受け、その5日後の1952年(昭和27年)5月6日に死亡した。直接の死因は頭蓋骨骨折。血のメーデー事件といわれ、戦後学生運動の最初の犠牲者となった。

5月24日に都学連葬が東京大学で、学生葬が法政大学で行われ、末川博淡徳三郎などから弔辞が寄せられた[1]

一方、法大総長大内兵衛は近藤の死について「個人的には大変お気の毒」としながらも学生がデモに参加する必要はなく、学校としては何とも考えていないとの見解を示した[1]

脚注

  1. ^ a b c d 『法政大学と戦後五〇年』 157-159頁

参考




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「近藤巨士」の関連用語

近藤巨士のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



近藤巨士のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの近藤巨士 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS