貞子女王 (徳川斉匡室)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 貞子女王 (徳川斉匡室)の意味・解説 

貞子女王 (徳川斉匡室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/16 13:21 UTC 版)

貞子女王
閑院宮家、田安徳川家
続柄 閑院宮美仁親王の第一王女

称号 裕宮(ひろのみや)
身位 女王( → 降嫁
出生 (1782-05-08) 1782年5月8日
死去 (1825-11-10) 1825年11月10日(43歳没)
配偶者 徳川斉匡
子女 一覧参照
父親 閑院宮美仁親王
母親 文君[1]
テンプレートを表示

貞子女王(さだこじょおう、天明2年3月26日1782年5月8日) - 文政8年10月1日1825年11月10日))は、江戸時代皇族女王)で、田安徳川家第3代徳川斉匡正室

生涯

天明2年3月26日グレゴリオ暦1782年5月8日)、閑院宮美仁親王の第一王女として誕生(母:文君)[1]。称号は裕宮(ひろのみや)[1]

寛政5年12月16日1794年1月17日)に、徳川斉匡結婚が定められる[2]。寛政7年10月22日1795年12月3日)、関東下向[1]。同年11月27日1796年1月6日)、徳川斉匡正室となる[1]。なお、下向を11月、降嫁を11月28日とする資料もある[2]

文政8年10月1日1825年11月10日)、逝去[2]。満43歳、数え年45歳。戒名無量院眞壽見阿大姉[2]。同年10月8日1825年11月18日)、上野凌雲院(上野寛永寺内)で葬儀が行われた[2]

貞子女王の没後、天保7年(1836年)に貞子女王所生の徳川匡時廃嫡されている。

子女

注:続柄は斉匡から見たもの。斉匡には貞子女王所生の子以外に20人を超える子がある。

参考文献

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 皇室系図綜覧 1915, p. 89.
  2. ^ a b c d e 皇族明鑑 1889, p. 64.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  貞子女王 (徳川斉匡室)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「貞子女王 (徳川斉匡室)」の関連用語

貞子女王 (徳川斉匡室)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



貞子女王 (徳川斉匡室)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの貞子女王 (徳川斉匡室) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS