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諏訪部堅雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/29 07:52 UTC 版)

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諏訪部 堅雄
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年(1713年
死没 寛政3年7月24日1791年8月23日
改名 諏訪部為之助、八十郎、文九郎[1]
戒名 日洞
墓所 江戸下谷法養寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治家斉
氏族 清和源氏満快流諏訪部氏[1]
父母 諏訪部定軌、定堅娘
兄弟 諏訪部堅雄、定年
長山直張娘、松平忠敦娘
諏訪部道順、堅寛

諏訪部 堅雄(すわべ かたお[1])は江戸時代中期の旗本江戸幕府御召の御馬預。

経歴

江戸幕府旗本諏訪部定軌の子として生まれた[1]享保10年(1725年)3月28日13歳で初めて徳川吉宗御目見し、享保13年(1728年)3月5日父の見習となり[1]、享保16年(1731年)4月3日廩米150俵を賜った[2]元文3年(1738年)2月9日、馬預・馬方に病人が続出する中で職務に勉励したとして金2枚を賜った[2]。元文5年(1740年)閏7月6日吉宗御成の際に先馬として渡河を命じられ、金2枚を賜った[2]

延享2年(1745年)9月1日西ノ丸御召の御馬預となった[1]寛延3年(1750年)8月26日家督を継いで本丸に出仕したが、引き続き西ノ丸に兼務して[1]吉宗の御召御馬御預を務めた[2]宝暦7年(1757年)10月12日万次郎の馬稽古に当たって手綱を任された[2]明和3年(1766年)10月20日下総国真間への遠馬を命じられた[2]安永2年(1773年)10月10日江戸城外への御供を免じられた[2]安永5年(1776年)4月徳川家治日光社参に供奉した[1]。安永7年(1778年)12月18日両番格となった[1]

寛政3年(1791年)7月23日高齢のため退職となり、金2枚を賜った[1]。24日79歳で死去し[1]下谷法養寺に葬られた[2]。法名は日洞[1]

親族

  • 父:諏訪部文右衛門定軌 - 諏訪部彦兵衛定直の次男、文九郎定堅の養子[1]
  • 母 - 諏訪部定堅の娘[1]
  • 妹 - 朝比奈弥太郎泰輝の妻[1]
  • 弟:諏訪部三之助定年[1]
  • [1]
  • 先妻 - 長山藤右衛門直張の娘[1]
  • 後妻 - 松平五郎右衛門忠敦の娘[1]
  • 子:諏訪部道順(八十郎定員)[1]
  • 子:諏訪部伝五兵衛堅寛 - 清水徳川家の家臣[1]
  • 娘 - 高木左京正雄の妻[1]
  • 娘 - 山角藤兵衛定慰の妻[1]
  • 子:諏訪部為之助[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 寛政譜.
  2. ^ a b c d e f g h 略譜.

参考文献




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