証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止についてとは? わかりやすく解説

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証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 03:01 UTC 版)

証券会社の営業姿勢に関する通達の1つで、1989年12月に発出されたもの(1989年蔵証2150号)。

損失補てんの温床となった「営業特金」を適正化するため[1]、法令の改正によらずに「事後的な損失の補填や特別の利益提供」を禁止したのが特徴[2][3]。投資顧問契約のついた特定金銭信託への移行を促すものだったため、同時に、投資顧問業者むけの通達「投資顧問業者の業務遂行上留意すべき事項について」(1989年蔵証2151号)も発出された。

株価が同月末を歴史的な高値として急落し、その後、長く低迷したことから、この通達の発出はバブル崩壊の原因の一つとされている[4][5][6][7]。発出当時の大蔵省証券局長であった角谷正彦の名を取って「角谷通達」と呼ばれることが多い[8][9][7][6]

概要

当時の通達行政

1965年5月の法改正(1965年法律90号[10])により、証券業は登録制から免許制に改められた。監督当局の権限が広い範囲で強化され、通達や事務連絡を発出する形で、行政指導が行われるようになった[11][12]

そうした通達・事務連絡には、

  • 本省と財務局間の事務配分を定める文書(事務委任通達等
  • 法令の執行のために、行政としての法令の具体的解釈や行政の判断基準、取扱手続き・様式等を定める文書(法令解釈・執行通達等
  • 証券会社等による一定の行為等を禁止、自粛、制限したり、証券会社等の望ましい業務運営方針を示すもの(指導通達等

などがあった[13]

うち証券会社の営業姿勢に関するものは、法令違反が目立つ場合や、予め全般的な注意を与える場合に、証券業協会あてに発出された[14]。1974年12月通達「投資者本位の営業姿勢の徹底について」(1974年蔵証2211号)、1980年6月通達「当面の証券会社経営上留意すべき事項について」(1980年蔵証768号)、1981年5月通達「証券会社の業務及び管理面において遵守すべき事項について」(1981年蔵証586号)などがそれに当たる[11]

発出の経緯

1989年11月、国税による査察調査の過程で、大和証券が1975~80年にかけて、ダミー会社を利用して、大口法人顧客(上場会社20~30社)の損失を補てんし、簿外処理していたことが判明した[15]。同様の損失補てんは、証券検査中の他の証券会社でも発見された。

当時、「損失補償による勧誘や特別の利益提供による勧誘」は既に法令により禁止行為とされていたが、「事後的な損失の補填や特別の利益提供」は禁止行為とされていなかった[9]。このようななか、当時は法人営業の加熱もあり、証券業界では、会社全体で広く損失補てんが行われていた[16][17][9]

そこで、大和証券については「有価証券報告書の虚偽記載」として行政処分を行う一方、通達を発出し、証券業協会の自主規制ルールを改正させて[18]、営業特金の適正化を証券業界に促すこととなった。

証券会社の経営理念や営業姿勢の厳正化が急がれた背景には、証券・金融の国際化もあった。1989年後半から、BIS規制に関する本格的な協議が始められたが、「日本の株高は異常である」と認識していた欧米案では有価証券の含み益が考慮されないため、都市銀行の自己資本比率は平均3%程度にしかならなかった[19][20]。また、証券監督者国際機構(IOSCO、1988年11月加入)では、イコールフッティングを確保するため、証券会社の自己資本規制や行為規範の統一に向けた検討が始められていた[21]

内容

本通達は以下の4項目から成り立っている(以下原文ママ)[22]

  1. 法令上の禁止行為である損失保証による勧誘(証券取引法第50条第1項第3号)や特別の利益提供による勧誘(証券会社の健全性の準則等に関する省令第1条第2号)は勿論のこと、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むこと。
  2. 公募株等については、従業員持株会等を対象とする場合を除き、発行会社が指定する販売先への売付け(いわゆる親引け)は行わないなど、公正を旨とした販売を行うこと。
  3. 特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引については、原則として、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること。
  4. 上記1乃至3を含め、営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止を図るため役職員教育の徹底を図るとともに、内部管理体制について速やかに再点検を行うこと。特に上記1乃至3について、自社の行う社内検査の重点項目とし、これらに違反する行為のあったことが判明したときは、関係役職員に対し厳正に対処すること。

営業特金の損失補てんに至った背景

1975年度から国債の大量発行が始まり、金融機関はその大口保有者となった。1980年夏、金利上昇の後、金融緩和が始まるも、公社債市況は弱含んだままで、特に、低クーポン債(利率6.1%のロクイチ国債)の値崩れが続いた。評価損を抱えた金融機関のために、法人税基本通達により、特金・ファントラ(特定金銭信託、ファンド・トラスト)での簿価分離が容認された[23]

金融機関や上場会社は、取得時期が古く、簿価の低い有価証券を保有している。簿価分離が許されないなら、同一の銘柄を新たに取得した場合に、低価法または平均法による再評価で含み益が表面化し、課税される。一方、簿価分離が許されるなら、経理処理が別になるため、含み益を温存することができる。

こうして、特金・ファントラが法人投資家の運用手段として定着することとなった。証券会社は、1982~83年頃から、国債を運用対象とする営業特金(証券会社が売買一任勘定取引として運用指図する特定金銭信託)を受注するようになった。

1986年頃から、円高不況で本業が不振となった上場会社は、エクイティファイナンスやCP(コマーシャルペーパー)発行により低コストの資金を大量に調達し[24][25]、これを特金・ファントラでの証券投資や、大口定期預金・CD(譲渡性預金証書)で運用して利ザヤを稼ぐ「財テク」を強化した[26]。1984年9月に保険会社に対し特定金銭信託を利用した株式投資(総資産の3%上限)が解禁され[27]、また、1985年前後からの株高をみて、低金利下で利回りに優れた株式投資が選好されたが、キャピタルゲインを積み重ねるため、高頻度で売買され、証券会社の有力な手数料源となった。そのため、銀行と対抗する必要から、証券会社が損失補てんを約束して受注する動きが横行した[28]

法人投資家は、営業特金を利用すれば、簿価分離できるので税法上のメリットが大きく、しかも損失補てんされるとなれば、ほとんどリスクなしで金融資産を運用することができる。しかし、そうした性格の資金が営業特金を経由して大量に還流すれば、株式市場における価格形成に歪みも生じる[29][30][31][32]

1987年10月の米国市場の株価暴落に際し、大蔵省は、株安の連鎖を防ぐため、1988年3月期における特金・ファントラの決算処理基準を弾力運用することとした。これにより法人投資家の買い意欲が復活、1988年1月以降、株価が再び上昇に転じて、日本市場への影響は一時的なものに留まった[33]。ここまで設備投資ニーズを上回るエクイティファイナンスが実施されたが、さらなる株高を期待する法人・個人の資金が流入し、また、過大な資金調達を行った上場会社の資金が営業特金を経由して市場に還流したため、株式市場の需給は崩れなかった[34]

日経平均株価、月足、1985~87年、ブラックマンデーまで

しかし、この「ブラックマンデー」を含む運用期間に、予定した(または暗黙裡に保証した)利回りが確保できなかった営業特金について、証券会社が損失補てんを余儀なくされたケースが少なからず発生した[35]

発出当時の反応

通達を発出した監督当局の側では、株価に影響を及ぼすことも想定していたが[36][37][38][39]、発出された証券業界の側では、深刻視も、原因視も、していなかった。

日本経済新聞が通達について初めて伝えたのは、1989年12月6日付けの本紙記事である[40]。その後は大和証券の受ける行政処分に関する記事が続き、発出の翌日には早速、通達の効果について、批判的な記事を掲載している[41]。しかし、通達の株価への影響については、12月29日付けの日経金融新聞記事まで触れていない[42]。そこでも、営業特金の禁止によりインデックス投信への資金シフトが発生するなどとして、必ずしもネガティブでなく、株価の先行きについては楽観的だった[43]

1990年2月28日付けの本紙記事では、室孝氏(室清証券社長、当時)のコメントを引用する形で、通達の株価への間接的な影響に触れているが[44]、これに先立つ26日付けの日経金融新聞記事では、株価急落の原因として、まず「公定歩合の引き上げ」を挙げている[45]。通達については、証券業界があくまで株価急落の緊急避難策として、「30%ルールの緩和」と並べて、「営業特金通達の弾力運用」を求めていることを伝えるに留めている。

一方で、1990年3月14日、日本経済新聞は、アナリストの調査レポートを引用する形で、通達が株式の需給関係に少なからぬ影響を及ぼしていると報道[46]。また、当時、山一投資顧問社長であった徳野幸三は、当該報道に対し株価の先行きについては楽観的見通しを示しつつも「年初来の相場急落の背景は高金利政策、先物との裁定取引の解消売り、営業特金の解約売りの三つだった」とするコメントを寄せ、通達が株価急落の原因の一つであるという認識を示した[46]

その後の顛末

1989年12月の通達の発出を受けて、本省監理会社22社は自主点検を実施し、1990年3月末時点で、大手4社・準大手6社が損失を補てんを行った旨を報告し、命じられて社内処分を実施した[47]

1991年5月、暴力団との不適切な取引や、特定の銘柄の過剰な投資勧誘など、大手証券会社の証券不祥事が明らかとなった[48]。その翌月、新聞報道により、損失補てんが1990年4月以降も続けられていたことが伝えられた。ここでいう「損失補てん」には、営業特金の解約のための違約金や、証券会社の過失を原因とするものが含まれていて、それが1990年1月以降の株価下落もあって、適正化が遅れ、また損失補てんの規模が膨らむなどしたわけだが[49]、証券市場に対する不信感・不公平感が強まる中、「証券会社は通達の発出後も損失補てんを続けていた」「監督当局も営業特金の適正化のため黙認した」などとスキャンダル視され、通達行政(=法令によらない行政指導)のあり方を含め、強い批判を受けることとなった。通達を発出した証券局長が異動した後のことで、しかも前後の状況を知る業務課長が交通事故死していたこともあって、監督当局の対応も後手後手となった[50][51]

1991年7月通達「有価証券の取引一任勘定取引について」(1991年蔵証1135号)と「証券会社の社内管理体制の強化等について」(1991年蔵証1306号)が発出されて、営業特金において行われることの多かった取引一任勘定取引が禁止された[52]

さらに1992年6月の法改正(いわゆる公正確保法。1992年法律73号[53])により、取引一任勘定取引の禁止が明文化されるとともに、「事後的な損失の補填や特別の利益提供」も法律上の禁止行為とされた。改正法に基づいて証券取引等監視委員会が設置され、損失補てんやその簿外処理(飛ばし)を行った証券会社の告発・行政処分勧告を開始した[54]。同時に、証券業協会は法律上の認可団体に改められ、その自主規制機能が強化された。通達や事務連絡の多くが移管され、自主規制ルールに焼き直された[55]

親証券会社による投資顧問子会社の顧客への損失補てんが行われていたことから、投資顧問会社の独立性を確保するため、1991年11月に投資顧問業法施行規則が改正、1992年1月通達「投資一任会社が顧客のために証券取引行為を行う場合の取扱いについて」が発出されて、投資顧問子会社による親証券会社への発注が禁止された。

1995年末、証券取引等監視委員会は、野村証券が過去数年間にわたって、いわゆる総会屋のために取引一任勘定取引を行い、これに損失補てんや特別の利益提供を行っていたことを発見した。その調査の過程で、他の大手証券会社も、同様の違法行為を行っていたことが明らかとなった。そのため、1997年12月の法改正(1997年法律107号[56])により、総会屋の根絶や株式会社の運営の健全性の確保を図るため、商法の罰則規定の改正が行われ、また、同月の法改正(いわゆる金融関係罰則整備法。1997年法律117号[57])により、検査忌避や虚偽報告、不公正取引、ディスクロージャー違反などに係る罰則が強化された。

株価バブルの崩壊

行政側の見解

日本銀行や内閣府、財務省等は概ね、以下のような見解をとっている。

バブル経済は、①資産価格の急激な上昇、②経済活動の過熱、③マネー・信用の膨張、の3つによって特徴づけられる[58]。価格高騰は、地価、株価だけでなく絵画、ゴルフ会員権など多くの資産で生じるが、経済のファンダメンタルズからみて「持続不可能」であって、特に大型のバブル経済は、深刻な害悪をもたらすとされる[59]。しかし、複数の要因が相互に関連して発生・拡大するため[60]、発生した時期や、崩壊が始まった時期を特定することは容易でない[61]

株価バブルの崩壊についていえば、まず、1987年10月に世界的な株価暴落が生じた。その後、1989年12月に日経平均株価が最高値を付けた。なお、大蔵省銀行局が土地関連融資の適正化を指導する通達を発出し始めたのは1985年7月であり、日銀が公定歩合の引き上げを始めたのは1989年10月である。ちなみに、日経店頭平均はこれらの後も値上がりを続け、1990年7月に最高値を付けた。

1990年の株価下落については、

  1. 日本の政局の不安…リクルート・ロッキード関係議員の選挙後の登用を巡る混乱などがあった、
  2. 日米構造協議への不安…日米構造協議自体は6月に決着するのだが、交渉の過程で200項目以上にもわたる米側の構造改善要求が明らかになるといった出来事があった、
  3. 金利の上昇…後述するように、日本銀行は1989年5月以降、1989年中に3回にわたって公定歩合を引き上げたが、1990年に入ってからの2回の引き上げを行った、
  4. 湾岸戦争…8月以降のイラクのクウェート侵略に伴う中東情勢の緊迫で原油価格が上昇した、
日経平均株価、月足、1988~90年、株価バブル崩壊まで

などが原因であると説明され、1990年の年初からの株価下落は「行き過ぎた価格が正常化した」と認識されていた[19]

東証一部時価総額、月末、兆円、1984年12月~2021年12月

日本銀行や大蔵省では、通達の発出時点では、株価バブルや資産価格バブルの崩壊後、バランスシート調整と金融システムの動揺が起こって、それが日本経済に深刻な影響を及ぼすことは想定していなかったとしている[62]

通達担当者の見解

財務省や日本銀行等、行政側では上述のようにバブル崩壊と本通達の関連性を否定している一方で、日本経済新聞が、大蔵省証券局長として通達を発出した角谷正彦に、2017年にインタビューしたところ、「本通達の発出前から、本通達が発出された場合、その効果として株価は急落するだろう」と予測していたことを明かしている[7]。また、当時、大蔵省職員として本通達を起案した高橋洋一は、「この通達発出の真の目的は高騰していた株価を下落させるためのものであった」とコメントしており、発出した当時の担当者はバブル崩壊や平成不況に大きな影響があると予測していたことや実際に影響があったことを認めている[7][9]

関連項目

特定金銭信託

損失補填

総量規制

通達

外部リンク

証券取引等監視委員会 - 「刊行物等への掲載(平成25年度)」のページ(※リンク先ファイルが残っている)。大森泰人(事務局長、当時)「霞ヶ関から眺める証券市場の風景~第80回自己責任」金融法務事情2013年3月10日号。「証券会社に運用を任せて損したのだから責任を取って補填せよ、と展開しないよう、一任取引自体を原則禁止する思考法に、長らく私は、あつものに懲りてなますを吹く感を覚えてきた。」というのは、当局者としては珍しい視点。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 「今回の一連の通達等の発出の背景の一つに、昨年末に起きた証券会社における特定顧客への損失補填問題がある。この原因をたどっていくと、特定の事業法人の取引が暗黙の了解の下に一任的に運用され、その結果損失を補填せざるを得なくなったということであったと思われる。当局においては、かねてより一任運用あるいは利回り保証を禁止するという証取法の規定の徹底を求めるため、いわゆる営業特金については係数的な管理を行ってきた。本来、特定金銭信託は、事業法人が信託銀行に対し個別の運用指図をするものであり、証券会社は事業法人の運用に対するアドバイスに限定して行うことができるという性格のものであるが、これがいつの間にか一任運用に移行し、証券会社の事業法人部門から証券会社の窓口に直接運用の指図が行われるようになって、信託銀行からの売買依頼書は事後的に証券会社にくるというような事態になってしまう惧れがある。」(水谷英明(大蔵省証券局業務課長)「証券局長通達等の背景について」証券業報1990年4月号)
  2. ^ 「それから、もう一つ敢えて言えば、通達を出した時は、結果的に株価がピークでしたよね。国会の先生方から、「あの通達のせいで株価が下がってけしからん」と僕に電話があったこともありまして、もし、あの時に法律としてやっていたら、恐らく通らなかったと思うし、法律成立までは補填は許されるのかともとられかねない。」(「90年代金融制度改革の立役者に聞く~角谷正彦氏証券史談」証券レビュー2012年7~10月号)
  3. ^ 「…法改正より通達でいっせいに指導すべきだという意見が大勢を占めた。だが、これが後に証券局批判の大きなポイントとなった。法改正なら国会という関門があるから、省内の詰めも与野党への根回しなども、よりシビアなものとなり、真剣な取り組みを求められる。そういった道を通らずに、安易な通達行政ですませたのは証券局の姿勢の甘さ、という批判が噴き出すことになる。」(塩田潮「証券局の誤算「損失補填」問題の内幕」プレジデント1992年10月号)
  4. ^ 「経済白書」では、「株式市場での企業評価を表す株価は、おおむね企業の資産価値を評価した水準になっていると考えられる」としつつ、「土地の市場価値には地価形成における予想要因が相当反映されていると考えられることから、株価と地価の双方にバブル的要因が作用している可能性も否定できない」と曖昧な表現にとどめている。明確にバブルと認識されるのは、株価下落が明らかとなった1990年以降であった。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  5. ^ 「こうして株価が下落したことについて、後世のバブルの崩壊を知る人々は「要するにバブルが弾けたのだ」と一括しがちだが、それぞれの時点では、個々の事象を取り上げて、その背景についての解釈が行われている。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  6. ^ a b 和泉虎太郎 (2016年11月14日). “山一證券を潰した「たった1枚の通達」の威力”. ダイヤモンド・オンライン. p. 2/3. 2018年3月17日閲覧。
  7. ^ a b c d “バブルとその余波(3)財務で荒稼ぎ、一転、損失の温床に――処理10年、世界の波に乗り遅れ(平成の30年陶酔のさきに)”. 日本経済新聞: p. 8. (2017年12月2日朝刊) 
  8. ^ 週刊東洋経済編集部編集 『バブル全史: 週刊東洋経済eビジネス新書No.225』東洋経済新報社、2017年。
  9. ^ a b c d 高橋洋一『経済政策の“ご意見番”がこっそり教える アベノミクスの逆襲』PHP研究所、2014年11月、190頁~195頁。ISBN-13:9784569821429。
  10. ^ 「証券取引法の一部を改正する法律」
  11. ^ a b 「昭和財政史-昭和49~63年度」6巻
  12. ^ 「我が国における業者規制としては、証券取引法令において、主として刑事罰則により担保される一般的行為規制のほか、主として行政処分により担保される証券会社等の禁止行為(法第50条)や予防的監督命令(法第54条)、その他の利益相反防止規定等が整備されている。また、証券会社の外務員に対しては、外務員の登録(法第62条)等の規制が行われている。これらの法令による規制に加えて、行政当局の通達、証券業協会や証券取引所の定款、規則等があり、証券会社や取引所会員等に対する規制の細目が定められている。以上の業者規制のうち、証券会社等の禁止行為や予防的監督命令の規定は、昭和43年の免許制の導入の際に設けられたものであり、我が国における規制の重点は、証券業者の監督を通じ不適当な行為の発生を未然に防ぐことに置かれている。」(証券取引審議会報告書「証券監督者国際機構(IOSCO)の行為規範原則の我が国への適用について」1991年2月)
  13. ^ 証券取引審議会報告書「証券市場における適切な競争の促進等について」1992年1月
  14. ^ 「証券会社の営業姿勢に関しては、基本の骨組みである法令とその肉付けである既存通達ではカバーしきれず、時価発行の急展開時代に合わせてこうしたきめ細かい指導が、市場における証券会社の諸問題の処理を後追いするかたちで行われたのである。投資者本位の営業姿勢とは、米国市場で「看板理論」といわれたものを日本市場に合わせて表現したものである。いわば通達に通達を上乗せするかたちをとったが、通達の相手方である日本証券業協会は自主規制規則をもつ組織であるから、既存の通達・規則の上にのせられたというのが正確なところであろう。免許制行政は建前としては事前予防を謳ってはいたが、現実の市場の展開に密着して繰り広げられる証券会社の営業工夫には追いつけず、通達行政の内実は後追い行政になっていた。そうであるがゆえに一層日本証券業協会の協力が必要とされたのであろう。」(「昭和財政史-昭和49~63年度」6巻)
  15. ^ 「――89年11月に、大和証券の70年代の〝損失補償〟が発覚しますね。 十亀 あれは当時の業界にあった「握り」。利回り保証商いは本来御法度で、やったら営業はみんなアウト。そこで営業を救おうと僕がひねり出した苦肉の策が「事後補填」なんです。「損させた大事なお客だから埋めました」と。だがこれが失策になった。営業の人を助けたけれど、客から文句が出た。「大口客だけ補填して、何で小口の客にはしてくれないんだ」と。 ――保証商いは昔からあった? 十亀 記者に突っ込まれてね。「こういう商いはほかにもあるんですか」って。「多少はあると思う」と言ったら岩崎(琢弥・日興証券社長)さんに「余計なことを言って」とひどく怒られた。なぜかと思ったら、日興にもあったんだね(笑)。 ――それが「角谷通達」もつながり、90年3月末までに営業特金(投資顧問会社ではなく、証券会社の法人営業員が運用する特定金銭信託)はすべて解消することになった。同時に取引一任勘定も禁じられた。 十亀 その結果として起きたのが91年6月の損失補填問題。野村の田淵義久社長が株主総会で「大蔵省にすべてお届けし、処理についても承認をいただいている」と真相をぶちまけたものだから、橋本龍太郎蔵相が外遊先で「証券会社はけしからん」と。信託銀行にも取引一任勘定と同様のファンドトラスト(ファントラ)があったのに、土田(正顕・大蔵省銀行局長)さんが国会で「ファントラは元本補填契約も利益補足(損失補填)契約も締結できない」(91年10月の参議院証券および金融問題に関する特別委員会)と言ったので、銀行は助かってしまった。」 (「特集/最後の証言バブル全史」週刊東洋経済2017年5月20日号)
  16. ^ 「証券会社が特金をセールスする段階で「〇%は確保します」と“請け負う”ことが多い。ある大手証券系投資顧問は「海運会社や電機メーカーから(利回りを保証する)一札を入れるように迫られた」というが、さすがにそこまでするケースは少ないようだ。だが、利回り保証を「した」、「しない」といったトラブルが今年2~3月の契約更改期に続出したことは事実。米国など投資顧問の先進国では運用の巧拙は株価指数に比べてどうだったかで測られる。投資顧問の買った株が値下がりしても、株価指数より下げ幅が小さければ「勝ち」。これに比べ、わが国の特金運用はあたかも確定利付商品といった趣さえある。」(日経公社債情報1985年7月22日号)
  17. ^ 「…しかも、大和の問題が明らかになってから、あちこちで行われているという話が耳に入ってきたわけです。だから、これは単なる外務員の不祥事というわけじゃなくて、むしろ法人営業部、あるいは他の部署も含め、いわば会社ぐるみで関係しているんじゃないかと。また、法律的に言えば、事前に利回り保証をしているのであれば法律違反であるけれども、ともかくいいようにしますなんて言って、後で文句を言われて、ハイ、ハイとやっているようじゃどうにもならん話です。」(「90年代金融制度改革の立役者に聞く~角谷正彦氏証券史談」証券レビュー2012年7~10月号)
  18. ^ 証券業協会は、自主規制ルール「証券従業員に関する規則」(公正慣習規則8号)と「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」)(同9号)を改正し、証券会社はそれぞれ、これに基づき「特金勘定取引管理規則」を策定することとなった。
  19. ^ a b 内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月
  20. ^ 1986年5月「経営諸比率の見直し」では、「4%(海外支店を有する銀行については、有価証券の含み益70%を自己資本に算入した上で6%)」の達成を求めていた。なお、最終的なBIS規制合意では、有価証券の含み益45%の参入が認められた。
  21. ^ 証券監督者国際機構(IOSCO)は、1990年11月に7原則(誠実・公平、注意義務、能力、顧客に関する情報、顧客に対する情報、利益相反、遵守)からなる行為規範原則を採択した。証券会社むけに、1991年3月通達「証券監督者国際機構(IOSCO)における行為規範原則の我が国への適用について」(1991年蔵証356号)が発出された。
  22. ^ 「証券業報」1990年1月号、日本証券業協会
  23. ^ 「「特金(特定金銭信託)」とは、信託銀行が扱う特定金銭信託のこと。金融機関、保険会社、事業法人等の投資家は信託銀行に資金を委ね、債券の銘柄・価格・数量などを指定して信託銀行に資金を運用させる。多くの場合、投資家は資金の運用については投資顧問会社に委ね、投資顧問会社が信託銀行に指示を出すが、投資家が運用を投資顧問会社でなく、証券会社に委託するものを俗に「営業特金」といった。一方、投資家から資金を預かり信託銀行が自分の裁量で運用を行うものを「特定金外信託」という。なお、「ファンド・トラスト」とは住友信託銀行が1981年10月に発売した特定金外信託の商品名であるが、これがヒットしたため他社の商品も合わせて「ファントラ」と呼ばれた。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  24. ^ 「株価の大幅な上昇や、その結果生じた株価の継続的上昇期待は、転換社債、ワラント債の持つオプション部分の価値を増加させ、これらの表面的な(クーポンレートでみた)発行コストは著しく低下した(後掲図表4)。また、当時の企業経営者は、転換社債、ワラント債のこうした表面的な発行コストのみを実際のコストと認識していた可能性が高い(後掲図表5)。このため、1980年代後半には、企業、特にこれら債券を発行しやすい大企業製造業を主体に、本来の資金不足額を大幅に上回る資金調達が実施された(付表2-1、図表6)。こうした調達された「低コスト資金」の一部は、後にみるように設備投資資金としても用いられたが、その相当部分は株式を中心とする金融資産投資に向かったものとみられる(付表2-1)。なお、この時期には企業部門全体としてみても相当規模の株式投資が行われたが、株式投資の増加は特に大企業製造業で顕著であり、企業の株式投資増加の主因はやはり大企業製造業を中心としたエクイティ・ファイナンス資金であったものと考えられる。」(「1980年代以降の企業のバランスシートの変化について」日本銀行月報1996年7月号)
  25. ^ 「熱狂の中で起こった株価暴騰がいずれ崩落するのは当然であった。その根底をなしたのが金融の超緩和であったことは既述のとおりであるが、株価形成のメカニズムに即していえば、エクイティ・ファイナンスそのものがそれをもたらしたのであった。以前の額面割当て方式と違って、ここでは株は時価発行されるが配当は額面割当てなので、発行企業としては低コストの資金獲得が可能であって、実際当時アメリカの企業の資金調達コストは5~8%だったのに、日本の場合は2%程度だったといわれる。ということは株式配当の多寡によって株価の動向が基本的に左右されるのではなくなったことを意味し、極端にいえば、株の購入行為はひたすらキャピタル・ゲインの見込みに依存することになる。それはバブル的であるが、もとをただせば、日本の企業が資本自由化対策として株式持合いを拡大し、相互に配当には拘泥しないという体制を整えてきたことの結果であったのかもしれない。強気が支配する時は青天井で上昇し、いったん弱気に転ずれば、配当による抑制が働かないため、底無しの株価下落に陥るほかないというおそれを抱えている。企業の利益率や株価収益率などの指標からみて、絶頂期の株価水準は根拠を失っていたのであり、遅かれ早かれきっかけさえあれば下落は必至であった。」(「平成財政史-平成元~12年度」1巻)
  26. ^ 「すなわち、時価発行増資や転換社債・ワラント債発行によるエクイティ・ファイナンスは、80年代前半には概ね年間5兆円を下回っていたが、株価上昇局面である87~89年にかけて急増した。ちなみに87~89年の3年間をみると、エクイティ調達の累計は55兆円に達し、資本市場調達に占めるエクイティ調達の比率も、89年には9割を超えるに至った(図表6)。また、同時期における企業の資金運用面の動きをみると、活発した設備投資に資金が充てられたほか、大口定期、特金・ファントラといった金融資産への運用も盛んに行われた姿がみてとれる(後掲図表7)。ちなみに特金・ファントラ等は、89年から90年ごとにかけては残高が40兆円を超えるところまで急増したといわれており、活発なエクイティ・ファイナンスが、企業のバランスシートを運用・調達両建で膨らませたことを示している。」(「株式市場の機能について~企業行動への関わり方を中心に」日本銀行月報1993年1月号)
  27. ^ 「従来、生・損保の株式投資は、中・長期投資による株式の含み益の増強にあった。しかしながら、株式特金が解禁されてからは、その姿勢は変化する。生・損保は、短期にキャピタルゲインを得ようとして、特金等の運用についてはアグレッシブな運用をするようになったのである。特定金銭信託を用いれば、売買益のインカムゲイン化が可能となることが、その主な理由であった。」(小島信一「特定金銭信託の現状等について」(証券1987年12月号、東京証券取引所)
  28. ^ 「株価がさらに上昇した1987年初め、山一証券は「事業会社の余裕資金は無尽蔵に近い」との認識から、法人営業のブローカー機能の重要性を強調した。後述するように、このころ、事業会社は財テクのため、金融子会社を利用するなどして、金融機関からの借入資金を利用した運用に乗り出していた。このため、資金調達コストを上回る利回りが求められ、競ってこれに応じようとした。証券会社間の競争に加え、信託銀行のファンドトラストとの競争も激化した。そこで、山一証券事業法人本部内では、「顧客企業に対し一任取引で一定期間の運用資金に対する利回りの保証をすることを約した勧誘(にぎり)で資金導入を図るケースが急増した」という。「にぎり」において約束した利回りが決算期の運用期限までに達成されない場合は、他の顧客企業を相手方とする損益調整売買(株式等の高値売却による益出し・翌朝買い戻しによる損失の繰り延べ)や新発転換社債の配分などによる利益の捻出が行われた。こうした方法は、当初は担当者レベルで行われていたが、次第に規模が拡大し、組織的な「にぎり」が行われるようになったという。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  29. ^ 「大型株相場の実態はまたぞろ、大手証券主体の、いわゆる“営業特金”を背景としたディーリング相場だ。昨年、大手証券に、一任勘定に限らなく近い法人資金(営業特金)が集まった。この資金が大型株に集中投資され、大相場をリードした。大型株主体の“出来高上位二十傑”が相場全体の出来高の二割、三割をしめたという異常事態に象徴された。「五十億円の“営業特金ファンド”が、九割以上、新日鉄、石川島、三菱重工といった大型株数銘柄に集中投資され、九月~十月の下げ過程で五割近い評価損を出した、などという例も決して珍しくなかった」(事情通)。大手証券の株式部長、担当役員クラスの間に秋口、「責任人事が行われるのではないか」といった噂が流れたことも、まだ記憶に新しい。それをまたぞろ、大型株のディーリング相場だ。何故か。兜町の事情通の話を総合するとこうだ。「各社とも十月下旬以降、ズタズタになった営業特金のお色直しにヤッ気となった。しかし結局うまくいかなかった。要するに、資金のロットが大き過ぎるんだ。数量銘柄でなくては到底資金が吸いとれない。値ガサ株をいじってみても、所詮は焼石に水。大半の資金が遊んでしまい、ちょっとやそっとでは評価損が消しきれない。再び大型株を、というのにはそうしたワケがある」。今、兜町には「新日鉄四〇〇円説」がまことしやかに流れている。大手主導のディーリング相場成就の“為の”説という気がしてならない。仮に、新日鉄の四〇〇円説の一つ一つの根拠が説得力をもったものとしても、あまりにタイミングが良過ぎる。」(「危険きわまりない 営業特金の運用」投資経済1987年3月号)
  30. ^ 「特金等による大量の資金流入は、株式市場に様々な影響をもたらしている。大型株への売買集中、大口取引の増加、株価の変動――など多くの変化が現れてきた。特金等による株式市場への大量の資金流入は、売買の対象を限られたものにせざるを得ない。すなわち、常時売り買いでき、出来高が多く、ロットでまとめて売買できるものでなくてはならない。かくして、売買の対象は、主として業種ごとのトップ、あるいは二番手銘柄等に限られることになる。流動性が高いものが対象となるわけで、売買は必然的に大型株に集中することになる。大型株への売買集中は、出来高の激増をもたらす。1日平均の売買高(東証分)をみると、60年には約4億株であったのが、61年には約7億株となっており、62年に入ってからは9月までで約11億株となっている。一方、大型株に売買が集中することで、これまで値動きの少なかった大型株も、大きく株価が変動するようになってきている。規模別株価指数(月平均値)をみると、62年2月には、大型株指数が小型株指数を抜いている。小型株指数は、資本金の大きさ等から高く推移していたが、大型株が物色されるにおよんで、人気が相対的に離散した。すなわち、市場では、株価の二極化現象が現れたのである。」(小島信一「特定金銭信託の現状等について」(証券1987年12月号、東京証券取引所)
  31. ^ 「企業側にも証券会社側にもうまみのある営業特金は、大流行となった。だが、しばらくすると、野放図に広がる営業特金に対して、証券会社の内部からも「危険性」を指摘する声が上がり始めた。営業特金の獲得に血眼になった証券会社は、運用に際して利回り保証をするケースが圧倒的だった。その場合、いったん株価が下落し始めると、大きな損を被る。相手が株取引に不慣れな顧客の場合は、トラブルが頻発する恐れもあった。野村証券では、87年の夏ごろから社内ルールを設けて営業特金の圧縮に乗り出した。」(塩田潮「証券局の誤算「損失補填」問題の内幕」プレジデント1992年10月号)
  32. ^ 「しかし、どう考えてもこの財テクの仕組みは正常ではないし、事実上の法令違反でもあった。証券会社は、営業特金をクロスさせてわからないようにしていたが、実際にやっていることは、時価発行増資で多額の資金を得るために、自社株を買って株価をつり上げているようなものである。」(高橋洋一「経済政策の〝ご意見番〟がこっそり教えるアベノミクスの逆襲」PHP研究所、2014年)
  33. ^ 「後に判明したことだが、このとき、証券会社による企業の営業特金に対する損失補てんも横行していた。営業特金とは、企業が証券会社に一任して資産を運用させる特定金銭信託であり、当時は事実上の損失保証が付いたものであったといわれる。…267)事前の明示的な損失保証があるわけではなく、事後的に証券会社が一方的に補償をするケースも少なくなかった。このため、運用を委託した企業側には必ずしも損失保証を受けているとの認識がないケースも多かった。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  34. ^ 吉川浩史(野村資本市場研究所)「イノベーションと株式市場~日本の経験と教訓」2016年5月
  35. ^ 「特金等については、受託者が元本の保証、あるいは利回り保証を行うことは、信託業法上禁止されている。しかし、残念なことに、委託者側には利回り保証がなされているとの錯覚が多分にある。株式・債券市場が堅調に推移している間は問題が起こることも少ないが、急落商状ともなれば、トラブルが生ずるおそれがある。また、特金等の中には、かなりの含み損を抱え、企業経営に重大な影響を与えているものもあると思われる。したがって、委託者は特金等の仕組みを理解するだけでなく、自己責任原則の徹底が必要であろうと思われる。」(小島信一「特定金銭信託の現状等について」(証券1987年12月号、東京証券取引所)
  36. ^ 「通達は12月26日に出したでしょ。実は、通達自体は11月末にできていたんです。できていたけれども、大臣に報告しようというんで、予算が終わるまで出すのを待っていたんです。その間に、証券業協会には公正慣習規則を直してもらって、これも含めてきちっと処理しようということだったんです。なぜ、大臣に報告したかといえば、これをやったら多少株が下がるかも知れない。株価に影響するかもしれないから、それも含めて大臣に了解を取った方がいいだろうというので、「これで行きたいと思う」と報告しましたら、当時の橋本大蔵大臣が「なかなか立派なこと書いてあるじゃないの」というようなことを言ったのを覚えています。」(「90年代金融制度改革の立役者に聞く~角谷正彦氏証券史談」証券レビュー2012年7~10月号)
  37. ^ 「…26日までずれ込んだ裏には隠れた理由があった。通達を出すことについて、蔵相の橋本龍太郎の了解を得ておく必要があったのだ。今度の通達の直接のきっかけとなったのは、3ヵ月前の89年夏に発覚した大和証券の100億円に上る損失補填事件であった。このとき、角谷は事件に関する処分内容について蔵相に報告した。そんな経緯があったから、今度も、事前に了解を取り付けておいたほうがいいと思った。ところが、12月は予算編成のシーズンで、大臣折衝などの日程が立て込み、橋本蔵相と会う時間がなかなか取れない。平成2年後予算の政府案ができ上がる少し前に空き時間が見つかったので、やっとそこで報告して了承を得た。証券局は通達を出すに当たって、証券業協会にも自主規制のルールをつくらせることにした。そのためにはある程度の準備期間が必要である。そういう事情もあって年末ぎりぎりまでずれ込んだ。」(塩田潮「証券局の誤算「損失補填」問題の内幕」プレジデント1992年10月号)
  38. ^ 「その際、証券局で一番気になったのは株価であった。営業特金を解消する場合、株価が低迷しているときであれば、解約料や損失の補填など、証券会社と顧客のあいだでトラブルが生じるケースが多くなる。だが、逆に上昇中であれば、解消しても顧客に損をさせないですむ。」(塩田潮「証券局の誤算「損失補填」問題の内幕」プレジデント1992年10月号)
  39. ^ 「当時の証券局長は角谷正彦氏だったが、局長室での会議で、「高橋、この通達を出すと株価はどうなる?」と聞かれた。「すぐに株価は下がります」と答えたのを覚えている。株価が下がることになるが、それでも角谷局長は決断して通達を出してくれた。通達を出したのが1989年12月26日。年末の12月29日の大納会の日に日経平均は3万8957円の最高値をつけている。翌年1月4日の「日本経済新聞」には、株価予想として6万円という数字まで出ていた。しかし、実際の株価は1月から下がり始めた。株価はどんどん下がっていき角谷局長からは「お前、よく当たったな」といわれた。私は、売買回転率に原因があると見ていたので、通達によって回転率が下がれば、株価も下がるだろうと予測していた。「これで、株高は終わった」と思った。」(高橋洋一「経済政策の〝ご意見番〟がこっそり教えるアベノミクスの逆襲」PHP研究所、2014年)
  40. ^ 「大和証券問題で大蔵省通達へ、営業姿勢改善促す――証券関係3業界に」日本経済新聞、1989年12月6日
  41. ^ 「ただ、今回の大蔵省の対応は、もっぱら大和証券や証券業界に限定されている。証券取引法の精神に照らしてみれば、明らかにモラルが低い「損失補てん」を受けた大口顧客は監督権限がないため野放しのままとなった。長期間にわたって大和証券の不祥事を解明できなかった大蔵省自身の監督責任も明確ではない。この点について、「今後の対応の教訓として生かしたい」と証券局の幹部が話しているものの、その責任を十分に果たしたとはいいにくい。証券界では、今回発覚した大和証券の損失補てん問題は、氷山の一角に過ぎないとの見方が多い。大和のように、ダミー会社を使い、子会社株を売却して顧客の損失を埋めるケースはまれであり、通常の株式や債券の売買の中にまぎれ込ませる形で個別の有力顧客の損失を補てんすれば、問題は表面化しにくいのが現実だろう。しかも、証券会社や投資顧問だけしばってみても、今や銀行局の管括下にある信託銀行が運用するファンドトラストが急膨張している現実をみれば、今回の措置だけで今後特定の大口顧客への損失補てん問題全体を解決するには限界がある。」(「根絶の効果疑問 「大和証券」氷山の一角か 証券業界に措置厳しいが」日本経済新聞、1989年12月27日)
  42. ^ 「新春の株式相場を読む、専門家座談会――4万円乗せ後調整も、上昇基調は変わらず」日経金融新聞、1989年12月29日
  43. ^ 「大和証券の損失補てん問題に端を発して、大蔵省が営業特金の自粛を通達したのが要注目だ。この結果、事業会社は運用成績のいい投資顧問に資金を預けたり、大口定期はじめ銀行預金に回す動きが出てくるだろう。株価形成には一定の影響が出る。それでも、銀行預金に回った分は銀行が原価法の投信、なかでもインデックス投信を購入するという形で株式市場に戻ってくる可能性が大きく、株価指数を下支えする。」(「新春の株式相場を読む、専門家座談会――4万円乗せ後調整も、上昇基調は変わらず」日経金融新聞、1989年12月29日)
  44. ^ 「金利上昇懸念があるうえ、大蔵省の通達で証券会社が運用するいわゆる営業特金が集まりにくくなっている。これが相場急落の背景にあった。薄商いのため、先物・現物裁定取引による売り圧力の影響も大きい。」(「室清証券社長室孝氏――3月末には反発か」日本経済新聞夕刊、1989年2月28日)
  45. ^ 「いまの相場急落を、ある証券マンは「日銀不信暴落」と命名する。「公定歩合を引き上げるかどうかわからない」という金融政策の不透明さが、投資家の不安感を必要以上にかき立てているという。二十一日の日銀筋の「市場にろうばい売りは出ていないようだ」との発言も、手の内が三万円の機関投資家の耳には、日銀は株価急落の影響を軽視しているように聞こえる。」(「利上げ不透明揺れる市場――株価、「先行き弱気」7割、時価換算で底割れ」日経金融新聞、1990年2月26日)
  46. ^ a b 「ドキュメント株価暴落 第1部衝撃編②」日本経済新聞、1990年3月14日
  47. ^ 「事後的な損失の補填や特別の利益提供」(=通達が発出されるまで禁止されていなかった)があった、という取り扱い。
  48. ^ 同じ1991年7~8月には、金融機関の不正融資も発覚した。取引先にノンバンクなどから融資を引き出させるため、預金証書と質権設定承諾書を偽造し、手交したもの。引き出された融資は、株式投機や買占め、地上げなどに回っていた。
  49. ^ 「なお、事後的な損失補填を一切行ってはいけないのかということであるが、顧客に対する投資勧誘等において証券会社に過失等が認められ、顧客の損失を補填する責めを負う場合に、証券会社が顧客の損失を補填することまでを禁止するものではない。ただし、この場合の投資勧誘等における証券会社の過失等が、証券会社や外務員に対する行政処分や協会処分の対象になることは当然である。わかりやすい例でいえば、証取法上こうしたことがあってはならないが、証券会社が事前に損失保証を約束して勧誘した場合、つまり「10億円出してください。私どもで運用しますが、もし万一結果がうまくいかなければ損は埋めます。」といった約束を証券会社が行っていた場合、それは私法上の契約としては有効である。一方、公法上そのような事前に損失補填をすることを約束して勧誘する行為は、証取法違反であり、証取法違反の行為を証券会社が行ったことについて証券会社や外務員が行政処分や協会処分を受けることになる。それでは、今後具体的に事後的な損失補填や特別の利益提供が行われた場合には、どのような処分を受けることになるかについてであるが、今回通達で明示的に禁止行為にされ、協会規則の改正も行われたことにより、第一次的には社内処分の対象となるとともに協会の処分対象にもなるわけである。さらに、これらが外務員として著しく不適当な行為と認められる場合には行政処分の対象にもなり、また、証券会社がそのような行為を行っていたということであれば、証券会社に対する行政処分や協会処分もあり得るということである。」(楠壽晴、高橋洋一(いずれも大蔵省証券局業務課課長補佐)「証券局長通達「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」の徹底について」証券業報1990年4月号)
  50. ^ 「…というか、通達について十分な説明をすることもなく、ともかく頭を下げて処理しようとしたので、一方的に大蔵省が悪い、通達が悪いという話で処理された。これには、当時現場にいた人間、担当課長の水谷君は亡くなっていますが、その下にいた課長補佐の高橋洋一君や、今は京大の先生になっている楠(壽晴)君なんかは、「我々が悪いことしたみたいに、みんなに思われて困っているんです」と僕の所に泣きついて来たんです。だから、僕は、「君、ちゃんと話すればいいじゃないか」と言ったら、彼らは「局長はちっとも聞いてくれない」と言うんです。「じゃ、俺が話してやろうか」と言って、松野君に電話をしても、国会でいない。だから、官房筋に電話して、要請があったら「私が国会で説明してもいいよ」と言ったんです。それでも埒が明かないから、僕は最後に腹を決めて、自民党国対委員長の中村正三郎という代議士がいまして、彼とは彼が大蔵政務次官の時から親しかったので、彼に「随分ご迷惑をかけているみたいですね。もし野党から申し出があったら、私が国会答弁してもいいと思っていますから、オーケーと言ってもらって結構です」と言ったんです。そしたら、官房の文書課長が飛んできて、現在の話は現役に任せて下さいと言うんです。」(「90年代金融制度改革の立役者に聞く~角谷正彦氏証券史談」証券レビュー2012年7~10月号)
  51. ^ 「橋本蔵相を始め、大蔵省側が、ひたすら頭を下げて嵐が過ぎるのを待つ戦術を取った裏には、もう一つの隠れた狙いがあった。真相を明らかにして本格的な論戦を展開すれば、この国会を「証券国会」に仕立てたい野党の思う壺にまんまとはまることになる。政府・自民党の企図する「政治改革国会」にするには、とにかく証券問題の議論を早めに切り上げることが必要であった。「大蔵省の不始末のせいで国会の審議が遅れたら、首相官邸や自民党、他の省庁から何と言われるか分からない」大蔵官僚たちの気持ちのどこかに、役人的な保身が頭を覗かせたのである。」(塩田潮「証券局の誤算「損失補填」問題の内幕」プレジデント1992年10月号)
  52. ^ 「この適合性原則に関連して、取引一任勘定取引については、法令、通達等により、取引の部分的禁止及び一般な自粛が規定されている。すなわち、証券取引法第127条において、取引所会員が、「顧客から有価証券の売買取引について売買の別、銘柄、数及び価格の決定を一任されてその者の計算において行う売買取引を制限」するため、「公益又は投資者保護のため必要且つ適当であると認める事項を大蔵省令で定めることができる。」こととされ、大蔵省令においては、取引一任勘定における過当取引が禁止されるとともに、取引一任勘定取引にかかる証券取引所への報告義務が規定されている。また、通達においては、証券会社に対して、広くこの種の取引の自粛を求めるとともに、「一任の内容に売買の別及び銘柄の決定を含む一連のいわゆる売買一任勘定取引」を、やむを得ず特別に行う場合の遵守手続きが定められている。さらに、証券業協会規則においては、従業員限りで顧客から取引一任勘定取引の注文を受けることが禁止されている。しかしながら実際の運用をみると取引所への報告がほとんど出されていない一方、証券事故の中には一任的な勘定に起因するものも相当みられるという意見もある。こうした点にかんがみ、業者の営業姿勢の一層の適正化を図る観点から、この際、売買の別、銘柄、数及び価格の全てを一任する取引一任勘定取引を取引所会員、非会員を通じて禁止することが必要であると考えられる。」(証券取引審議会報告書「証券監督者国際機構(IOSCO)の行為規範原則の我が国への適用について」1991年2月)
  53. ^ 「証券取引等の公正を確保するための証券取引法等の一部を改正する法律」
  54. ^ 「証券取引等監視委員会は、飛ばしや、損失補てんを行った事例に対して、告発や勧告を行った。平成4年12月22日には、コスモ証券について、含み損のある有価証券を他企業に転売する飛ばしや、特定の顧客に対する損失補てんをしていたとして、大蔵大臣に対し、健全性省令違反で行政処分を行うよう初の勧告を行った。これを受けて、大蔵大臣は、同年12月28日、同社の一部業務について業務停止命令を発した。コスモ証券は、平成5年8月13日に、簿外取引(飛ばし)で債務超過状態となり、大和銀行への第三者割当増資で経営再建を図る旨を大蔵大臣に報告した(本節第1項参照)。その直後の8月18日、証券取引等監視委員会は、コスモ証券が会社として飛ばし取引を行ったことに対して、行政処分を行うことを大蔵大臣に勧告した。平成5年8月23日に、大蔵省は、証券47社を対象として実施した聞き取り調査の結果新たな飛ばしはなかったとし、今後も営業姿勢の適正化や内部管理体制の強化を行うよう求めた。その後の平成6年3月、証券取引等監視委員会は、勧角証券について、同社及びその役職員が昭和60年から平成3年ごろにかけて飛ばしや損失補てんを約しての勧誘を行ったこと等に対して、行政処分を勧告した。さらに、平成7年12月には、十数名の顧客に損失を補てんしていた証券会社(千代田証券)及びその役職員並びに顧客に対して告発を行い、また、同社及び同社役職員に対しては、翌平成8年3月に行政処分の勧告が行われた。」(「平成財政史-平成元~12年度」6巻)
  55. ^ 残った通達や事務連絡は、1998年6月、金融監督庁の発足に先立って見直され、廃止、省令・告示化、「事務ガイドライン」への移行などが行われた。事務ガイドラインは、2007年9月、金融商品取引法の施行に際して、「総合的な監督指針」に整理された。
  56. ^ 「商法及び株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律の一部を改正する法律」
  57. ^ 「罰則の整備のための金融関係法律の一部を改正する法律」
  58. ^ 翁邦雄・白川方明・白塚重典「資産価格バブルと金融政策:1980年代後半の日本の経験とその教訓」金融研究2000年12月号、日本銀行金融研究所
  59. ^ 「…ミクロ面では相対価格の歪みによる資源配分の歪みおよび分配の不平等問題、マイクロ面ではとくに崩壊・反動曲面で金融システムの弱化を含むマクロ的不安定を結果すること…」(香西泰・伊藤修・有岡律子「バブル期の金融政策とその反省」金融研究2000年12月号、日本銀行金融研究所)
  60. ^ 「バブル経済の発生・拡大の原因については、以下のような要因が取り上げられることが多い。●金融機関行動の積極化 ●金融自由化の進展 ●金融機関のリスク管理の遅れ ●自己資本比率規制の導入 ●長期にわたる金融緩和 ●地下上昇を加速する税制・規制のバイアス ●国民の自信、ユーフォリア(陶酔)●東京への経済機能一極集中、国際金融センター化」(翁邦雄・白川方明・白塚重典「資産価格バブルと金融政策:1980年代後半の日本の経験とその教訓」金融研究2000年12月号、日本銀行金融研究所)
  61. ^ 「こうした土地、株の値上がり、値下がり具合を総合的に示すものとして、国民経済計算のストック勘定にある「調整勘定」を見るという方法がある。国民経済計算では、毎年度の確報公表時に、経済全体の資産と負債を時価表示した国民貸借対照表を公表している。この中の「調整勘定」は、投資活動によらないで実現した資産の変動を示すものだが、その実態は値上がり益(キャピタル・ゲイン)または値下がり損(キャピタル・ロス)である(図表2-1)。図表2-1に示したように、1980年代後半のバブル期には、4年間にもわたって、毎年ほぼ名目GDPに匹敵するかそれを上回る規模のキャピタル・ゲインが発生していたことがわかる。1990年以降は、その逆転現象が起き、キャピタル・ロスが続くことになるが、その経年変化を見ると、①1990年以降、株式に先行的にキャピタル・ロスが発生していること、②株式のキャピタル・ロスは1992年までで一応収束しているが、土地は、本第4部の対象期間である1996年に至るまで継続的にロスを記録していること、③名目GDP比に見るように、キャピタル・ゲインは短期間に巨額のものが発生したが、ロスはより小規模で長期間にわたって続いたこと、などが分かる。」(内閣府・経済社会総合研究所「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」歴史編1巻、2011年3月)
  62. ^ 「…すなわち1980年代後半の資産価格上昇は、経済のファンダメンタルズからみて持続不可能なバブルであって、1990年代には反動的に下落した。その過程で、企業はバランスシート調整を余儀なくされ、少なくない数の銀行その他金融機関が破綻し、金融システムは動揺した。このことが、1990年代における日本経済に深刻な影響を与えた。直言すれば、1980年代の資産価格バブルこそ、1990年代の日本経済停滞の一原因である。」(香西泰・伊藤修・有岡律子「バブル期の金融政策とその反省」金融研究2000年12月号、日本銀行金融研究所)



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