裴儁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 16:58 UTC 版)
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裴 儁(はい しゅん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代に蜀漢に仕えた政治家。字は奉先。本貫は河東郡聞喜県。父は霊帝に仕え、尚書を勤め、列侯に封じられた裴茂。兄は魏の尚書令の裴潜[1]。弟は裴輯・裴徽・裴綰。子は裴越(字は令緒)。『三国志』蜀書「孟光伝」及び裴松之が注引く『裴氏家記』に記述がある。
生涯
裴家は世に名高い著名な姓として知られ、父の裴茂は県令、郡太守を歴任した後、尚書となり、建安初年、李傕の討伐に功績を挙げて列侯に封じられた[2]。
裴儁は戦乱を避け、当時安定していた荊州に身を寄せた。十歳余りの頃、姉の婿が蜀郡の長史として赴任するのを見送ったところ、後漢末の大乱に巻き込まれ、帰ることができなくなった。
裴儁は成長すると蜀の地でその名を博し、重く用いられるようになった。劉備が益州を領するとこれに仕え、劉禅の代になると九卿光禄勲となった。年齢は大司農であった孟光より下であったが、先んじて位は上にあったとされる。
子の裴越は蜀の督軍となったが、蜀が破れると、洛陽に帰り、議郎を拝した。
脚注
参考文献
- 『三国志』
- 『裴氏家記』
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