藤原近成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 10:16 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動藤原 近成(ふじわら の ちかなり)は、平安時代前期の官人。官位は従八位上・筑後掾。
経歴
筑後掾を務めていた際に、筑後少目・建部真貞、正六位上・清原利蔭らと共に筑後守・都御酉の殺害を計画。元慶7年(883年)6月に前筑後掾・藤原武岡と大宅近直に数十人を率いて都御酉の館を襲わせ、これを射殺の上で財物を略奪させた[1]。しかし、大宰府による捜索を受けて8月に実行犯は捕縛されてしまう。同年10月に藤原良積が推問筑後国殺害使に任ぜられて九州に下向し[2]、さらに翌元慶8年(884年)6月に弾正少弼・安倍肱主らが大宰府に派遣されて推問が行われた[3]。刑部省での裁定の結果、仁和元年12月(886年1月)に近成は首謀者として死罪となるが、詔によって死一等を減じ、遠流となったという[4]。その後の消息は不明。
また、『尊卑分脈』などの各系図には近成の名がなく、詳しい系譜は不明である。
参考文献
脚注
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