華軼討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 09:27 UTC 版)
307年、琅邪王司馬睿は建業に入り、311年には鎮東大将軍に昇ると、周訪は参鎮東軍事を拝命した。この時期、江州刺史華軼は司馬睿からの命を拒絶したので、周訪は揚烈将軍に任じられ、1200の兵を従えて彭沢に進駐して華軼に備えた。しかし、周訪は華軼の天下を憂う志を高く評価しており、この軍事行動が司馬睿と華軼の仲をさらに悪化させることを嫌がり、尋陽の鄂陵に移った。間もなく永嘉の乱が起こると、司空荀藩は司馬睿を盟主に推戴し、司馬睿もこれを受け入れた。しかし、華軼は承服しなかったので、周訪は命を受け、甘卓・趙誘らを引き連れて華軼討伐に向かった。周訪はまず先に進軍してきた武昌郡太守馮逸を撃破し、柴桑へ敗走させた。勝ちに乗じて進撃すると、華軼は王約・傅札を始め1万人余りの増援を送り、湓口において迎え撃った。周訪は大勝して王約らを破ると、さらに彭沢へ進軍して水軍を率いる朱矩らを撃破した。元江州刺史衛展と豫章郡太守周広は華軼を裏切って背後から奇襲を掛け、軍は総崩れとなった。華軼が安城から逃走すると、周訪は追撃して遂に華軼を討ち取った。これにより、司馬睿は江州を手中に収めた。戦後、司馬睿は周訪を振武将軍・尋陽郡太守に任じ、鼓吹と曲蓋を下賜した。
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