菊地儀之助
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菊地儀之助(きくち ぎのすけ、1877年(明治10年)?11月3日(戸籍上では1881年(明治14年)6月1日)-1961年(昭和36年)[1])は、北海道美幌のアイヌ。首長の家系に生まれ、アイヌ語やアイヌ文化を伝承した。アイヌ語美幌方言最後の話者。
生涯
1877年、クビタイ Kupitay(網走郡美幌村字クビタイ、現・美幌町福住と同町都橋の間[2])に生まれる。生地はトピニタイともいう。若い頃は夏には地上の家「サクチセ」に、冬は半地下の竪穴建物「トイチセ」に住んだ[3]。アイヌ名はウカイセ[4]、パシユエサン[5]、パシュイサン[6]、パスイエサン[7]、イサンテク(優秀という意味、何を作っても上手に作れたことから)[8]。
12、3歳頃にアシㇼペックシ 'Asirpetkusi(網走郡美幌村字アシリペツクシ、現・美幌町野崎)に移住した。30歳前後で、札幌で生まれ旭川育ちの女性と結婚した[1]。この女性は知里真志保の遠縁であった[9]。アイヌ語美幌方言の話者、アイヌ文化伝承者として多くの研究者の調査に協力、『アイヌ語方言辞典』の編纂などに貢献した。
家族
- 祖父 - ウィントク(ウエンドク、菊地ウエントゥク):釧路・白糠・足寄・根室・阿寒・美幌を支配した首長[8]。
- 父 - イカㇰレカ(菊地儀八)(-1925年):クビタイの人。ウィントクの後を継いで美幌の首長となる[8]。
- 母 - 菊地テル:タッコㇷ゚ Takkop(網走郡達媚村、現・津別町)の人[1]。
- 叔父 - イタㇰヨ(菊地儀七):イカㇰレカの弟。兄の後を継いで美幌の首長となる[8]。
- 叔母 - チャレヌㇺ(チャレヌン、菊地クラ[10]):母・テルの妹であり叔父・イタㇰヨの妻。サコㇿペ(口承文芸)に優れた[8]。
- 姉妹 - 菊地ハル:夫は岩手の和人・栄八。六人の子を儲けた[8]。
- 甥 - 菊地股吉(1912年-):菊地ハルの次男。美幌の古老としてアイヌ文化を伝承[8]。
- 従妹 - 日下ユキ(1911年6月19日-):イタㇰヨとチャレヌㇺの子。アイヌ文化伝承者。夫は美幌町美富に入植し開拓に従事した[11]日下万蔵[12]。
脚注
- ^ a b c 服部四郎 編『アイヌ語方言辞典』岩波書店、1964年 。
- ^ 美幌町史編さん委員会 編『美幌町史』美幌町、1972年 。
- ^ 米村喜男衛『モヨロ悠遠 : 米村喜男衛遺稿』米村美登里、1985年8月 。
- ^ 米村喜男衛 (7 1960). “アイヌのチャシ(砦)”. 民間伝承 (六人社) 24 (4): 8-11 .
- ^ 富樫酋壹郎 (7 1954). “釧路で行はれた熊祭”. 釧路博物館新聞 (釧路市立郷土博物館) 31: 49-51 .
- ^ 米村喜男衛『モヨロ貝塚 : 古代北方文化の発見』講談社、1969年 。
- ^ 網走市史編纂委員会 編『網走市史』網走市、1958年 。
- ^ a b c d e f g 長谷川利治 (6 1988). “伝承記録映画製作をめぐって”. アイヌ文化 (アイヌ無形文化伝承保存会) 13: 37-46 .
- ^ 和田義雄 編『ぷやら新書 : 新装覆刻』沖積舎、1981年10月 。
- ^ 河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 編『河野広道博士没後二十年記念論文集』北海道出版企画センター、1984年7月 。
- ^ 美幌町開基五十年記念準備委員会 編『美幌町誌』美幌町開基五十年記念準備委員会、1937年 。
- ^ 『エカシとフチ』編集委員会『エカシとフチ : 北の島に生きたひとびとの記録 別冊』札幌テレビ放送、1983年12月 。
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