荘厳院 (伊達政宗側室)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 荘厳院 (伊達政宗側室)の意味・解説 

荘厳院 (伊達政宗側室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 14:27 UTC 版)

荘厳院(しょうごんいん、? - 寛永21年7月3日1644年8月5日)は、江戸時代初期の女性。仙台藩初代藩主・伊達政宗の側室。

生涯

柴田信恒の娘として生まれる。名は(弘)。仙台藩主・伊達政宗の側室となり、阿茶の局と称される。

慶長18年(1613年)に政宗の九男・宗実(喝食丸)を産み、寛永13年(1636年)に政宗が死去すると落飾して果学尼と号する。寛永16年(1639年)、宗実が亘理郡亘理城主・伊達成実の養嗣子に迎えられると、宗実の後見役を命じられた弟の常弘らと共に亘理へ移った。

寛永21年(1644年)7月3日死去。墓所は亘理称名寺。法名は荘厳院善誉果学大禅尼。

芝多(柴田)家

荘厳院らが亘理へ移った際に、常弘の嫡男・常元は仙台本藩に残り別家を興した。

この仙台本藩の柴田家は、第3代・常春が伊達綱村の側近として重用されたことにより、着坐家格に列し、柴田郡村田2000石を拝領した。また常春は、一家(家格)の四保柴田氏と紛らわしいことを理由に、綱村の命により芝多に名字を改めさせられている。

芝多家はその後奉行職(他藩の家老に相当)を多数輩出し、幕末の慶応2年(1866年)に村田から加美郡谷地森(現:加美町谷地森)に移され、廃藩を迎えた。

           ┏柴田常元━柴田常信─芝多常春(大波元重の子)
     ┏柴田常弘━┫
柴田信恒━┫      ┗柴田常氏
     ┗荘厳院
       ┣━━━━伊達宗実
      伊達政宗

脚注

参考文献

  • 『亘理町史』上巻(宮城県亘理郡亘理町、1975年)
  • 『村田町史』(宮城県柴田郡村田町、1977年)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  荘厳院 (伊達政宗側室)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「荘厳院 (伊達政宗側室)」の関連用語

荘厳院 (伊達政宗側室)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



荘厳院 (伊達政宗側室)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの荘厳院 (伊達政宗側室) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS