范希朝とは? わかりやすく解説

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范希朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/25 08:24 UTC 版)

范 希朝(はん きちょう、生年不詳 - 814年)は、唐代軍人は致君。本貫河中府虞郷県[1][2]

経歴

建中2年(781年)、邠寧虞候となった。軍政の事務を修めて、邠寧節度使の韓遊瓌に仕えた。建中4年(783年)、徳宗奉天に避難すると、希朝は防戦に功績があり、御史中丞を兼ね、寧州刺史となった。韓遊瓌が奉天から邠州に帰ると、希朝の名声が高いのを憎んで、希朝を殺そうとした。希朝は恐れて、鳳翔府に逃亡した。徳宗はこのことを聞くと、希朝を長安に召し出して、左神策軍に置いた。貞元14年(798年)、韓遊瓌が死去すると、邠州の諸将は連名で希朝を節度使とするよう請願し、徳宗はこれを許可した。希朝は張献甫に節度使の位を譲り、徳宗は張献甫を邠寧節度使に任命した。数日後、希朝は振武軍節度使に任じられ、検校礼部尚書を加えられた。のちに入朝して検校尚書右僕射となり、右金吾衛大将軍を兼ねた[1][3]

貞元21年(805年)、順宗のとき、王叔文が政権を握ると、韓泰に兵権を掌握させようとした。希朝は左神策軍・京西諸城鎮行営兵馬節度使となり、奉天に駐屯したが、韓泰が副使とされ、希朝と交代する予定となった。王叔文が失脚すると、交代は中止された。永貞元年(同年)、憲宗が即位すると、希朝は検校尚書左僕射・右金吾衛大将軍となった。元和2年(807年)、検校司空霊州大都督府長史・朔方霊塩節度使として出向した[4][5]

希朝は甘州沙陀突厥を誘って1万人を帰順させ、功績により河東節度使に転じた。元和5年(810年)、軍を率いて恒州の王承宗を討ったが、功績なく帰還した。老病のために事務をみることができないとして、左龍武軍統軍に任じられ、太子太保として致仕した。元和9年(814年)、死去した。太子太師の位を追贈された。はじめのは忠武といい、のちに宣武と改諡された[4][5]

希朝は当時に名将と称され、趙充国にたとえ比べられた。しかし王承宗と対峙しなかったことは、非難された[4][5]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4058.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 5167.
  3. ^ 新唐書 1975, pp. 5167–5168.
  4. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4059.
  5. ^ a b c 新唐書 1975, p. 5168.

伝記資料

参考文献




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