若き日の思い出 (武者小路実篤)
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『若き日の思い出』(わかきひのおもいで)は武者小路実篤の小説。
当初は「母の面影」という題で、『陸輸新報』に昭和20年5月22日から10月25日にかけて、計103回連載された。起筆は同年3月ころ。「稲住日記」によれば終戦をはさんで8月22日脱稿。
昭和21年4月、座右宝刊行会から単行本となった時、題名は「若き日の思い出」に変更された。ただし内容は武者小路自身の体験ではない。
恋愛小説であるという点で、『友情』『愛と死』の系列に属する。ただしこれらの作品に比べ、大事件に乏しいため、作品の知名度は低い。そのかわり努力を尊ぶ作者の主張がわかりやすい。
登場人物
- 私(野島)
- 病弱のため、K海岸で療養。そこで出会ったのが、学習院の同級生の宮津と、その妹。ここから物語が始まる。
- 宮津
- 「私」の学習院の同級生。K海岸で「私」を別荘に招待し、以後交際を深める。
- 正子
- 宮津の妹。女主人公。無邪気で美しい娘。
- 宮津の父親
- 「私」が宮津家の夕食に加わったとき、「私」の真剣さを認め、将来ものになると期待してくれる。
- 川越
- 貧乏だが若く熱心で有望な画家。彼に会うと「私」も負けないぞという気になる。
武者小路自身の言及
この小説は陸輸新報に『母の面影』として連載されたものだが、長さの都合で題と内容が、少し一致しなくなったので、題をかへたのだ。僕の若き時の思い出ではないが、小説の主人公の思ひ出をかいたものとして『若き日の思ひ出』とした。この小説は始め陸輸新報の為ではなく、同じ処で出してゐた女の従業員に計り読ます雑誌にたのまれて、『愛と死』のやうなものを書いてくれという註文で書き出したものだが、同雑誌が空襲のために出なくなったので、新報にのることになったのだ。(後略) — 昭和21年 座右宝刊行会版のあとがき[1]
この小説は僕のかいた小説のある種の小説、「友情」「愛と死」、なぞの部類に属する小説として一番自分には思ひ出の多い小説である。戦争の終戦の年、陸輸新報にたのまれてかいたもので、書き出しは東京で、書き上げたのは秋田の山奥の稲住温泉で、その間の部分はある処は新潟県の三条町でかき、秋田市でかき、横手町でかいた。 (中略)
自分では僕のかいたものの内、一番多くの人に愛読されていいものと思ってゐる。(後略) — 昭和25年 調和社『武者小路実篤著作集』の序文[2]から
原稿
全103章のうち80-83章を除いて、現在調布市の武者小路実篤記念館が所蔵している[3]。
批評
第二の注目点は、主人公野島と同じ次元において語ることのできる人物が作中に二人登場し、そのいずれもが、作家その人の分身であることである。一人は、正子の父の東洋史学者、もう一人は、友人の若き画家川越である。川越は、若き日の実篤の相貌を、野島とともに物語り、老史学者は、ちょうど還暦の年を迎えてこの作を書きつつある実篤自身を思わせる。 高田瑞穂(旺文社文庫解説)
あの敗戦の真っ只中で、敗戦を境におよそ半年、一日も仕事を休まずにただ敗戦を伝えた日一日だけ『原稿かく気も絵をかく気もしない』日をおくって、この長編が書きついで来られた。その間送った原稿が未着で書き直したり、掲載紙から返事がなくて気をもんだり、家人に書き写させて控えをとったり、平時とちがういろいろの苦労をかさねて、武者小路先生はこれを書き続けた。 そういうあらゆる苦渋の影のかけらさえこの作の中に感じられぬほど、この作の主人公たちと共に先生は生きつづけたのだと思う。 中川孝(旺文社文庫解説)
出版史
- 若き日の思ひ出 座右宝刊行会 1946
- 武者小路実篤著作集2 若き日の思ひ出 調和社 1950
- 武者小路実篤全集7 新潮社 1955
- 現代国民文学全集24 角川書店 1958
- 定本武者小路実篤選集5 日本書房 1961
- 武者小路実篤作品集1 芳賀書店 1965
- 武者小路実篤選集6 筑摩書房 1967
- 日本文学全集12 河出書房新社 1969
- 現代日本の名作13 旺文社 1976
- 武者小路実篤全集14 小学館 1990
- 文庫本としては、市民文庫 1953年(翌年から河出文庫)、角川文庫 1955年、新潮文庫 1957年、旺文社文庫 1966年
脚注
出典
- ^ 武者小路実篤全集14巻 小学館 1990
- ^ 武者小路実篤全集18巻 小学館 1991
- ^ 美愛真 調布市武者小路実篤記念館会報 第24号 2013年3月
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