興善惟寛の狗子仏性無話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 01:29 UTC 版)
現存する資料によって判断すると、狗子仏性無話を最初に取り上げたのは、 馬祖道一の法を嗣ぐ唐代の禅僧興善惟寛(755年 - 817年)であると、廣田宗玄は述べている。 問う、「狗子に還た仏性有りや否や」。師云く、「有り」。僧云く、「和尚、還た有りや否や。師云く、「我は無し」。僧云く、「一切衆生は皆な仏性有り。和尚は何に因ってか独り無き」。師云く、「我は一切衆生に非ず」。僧云く、「既に衆生に非ざれば、是れ仏なりや否や」。師云く、「是れ仏にあらず」。僧云く、「究竟是れ何物ぞ」。師云く、「亦た是れ物にもあらず」。僧云く、「見る可く、思う可きや否や」。師云く「是れを思うも及ばず、是れを議するも得ず。故に不可思議と云う」(景徳傳燈録 巻七)。 ここでは、興善惟寛は、狗子には仏性が有ると答える一方で、自らには仏性はないと答えている 。
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