胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり
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胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり(ごまのあぶらとひゃくしょうはしぼればしぼるほどでるものなり)は、日本の歴史においての言葉。江戸時代中期の旗本で勘定奉行を勤め、「酷吏」と呼ばれた神尾春央(若狭守)の発言
「神尾氏が曰、胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物也と云り」
が元とされる[注釈 1]。
神尾若狭春央はこの時代の極端な増税論者で、西日本で災害救済用の隠し田まで徴発し、民衆からは「東から かんの若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ」と、落首が貼られて批判された。なお、堀江荒しろとは、部下で過酷な検知を強行した農民出身の堀江荒四郎のことである[1]。
明治以降の日本史を議論する時、この言葉は江戸時代の日本では重税であった、庶民を残酷に扱っていたという江戸暗黒史観、貧農史観を示すものとして通俗的な講話でよく用いられた。例えば経済学者の本庄栄治郎は昭和11年の講演『幕末の非常時に就いて・幕末の経済思想に就いて』において、「幕府は胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物也といって、民衆の生活向上を禁じていた」とさえ拡大解釈していた[2]。
日本の歴史の教科書にはほぼ必ず登場する言葉であったものの、その後の歴史学の研究により、本庄のような「貧農史観」が見直されたたため、[3]現在の教科書ではこの言葉を削除するという傾向になっている[4]。
この言葉が言われていた時代は徳川吉宗のころで、江戸時代では最も年貢量が高かった時代である。それまで用いていなかった方法で年貢を計算して、年貢を上げるということをしていた。だがこれのおかげで既成事実にとらわれずに江戸幕府の財政再建のために貢献できたということでもある[5]。
この言葉を言い出した人の発案でこの時代には河川敷などの特殊な土地の開発が積極的に行われていた。関東地方の河川敷の開発は約1万ヘクタールに達した。ここで幕府は河川敷などの特殊な土地は、日本全国の全てが将軍のものであり、領主は将軍から一時的に預かっているということにしていた。そして開発可能な土地を見つければ幕府が積極的に開発を命じて、その開発された土地を幕府領に組み入れていって年貢を増収させていった[6]。
脚注
注釈
出典
- ^ 通俗教育研究会 編『逸話文庫 : 通俗教育 武士の巻』大倉書店、明44。なお、同書では出典を丹波篠山藩家老の松崎白圭『窓のすさみ』によるとしている。同書は刊行されず写本で伝来した書。『古事類苑』では出典を『甲子夜話』巻5とする。
- ^ 『幕末の非常時に就いて・幕末の経済思想に就いて』高岡文化会、昭和11
- ^ 大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社現代新書
- ^ “令和の大増税は“江戸時代の五公五民”より過酷?「真の国民負担率」で見る不都合な真実”. ダイヤモンド・オンライン (2023年12月31日). 2025年7月16日閲覧。
- ^ “小田原史談第278号”. 日外アソシエーツ. 2025年7月16日閲覧。
- ^ “見取場の年貢割付状|NETWORK租税史料|税務大学校|国税庁”. www.nta.go.jp. 2025年7月16日閲覧。
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