胡朝政権の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:23 UTC 版)
1407年1月22日、明軍は多邦で胡朝軍を破ったあと、東都(昇龍)を占拠した。胡朝軍は西都(タインホア省ヴィンロック県)へ退却して守りを固めたが、1407年4月に明軍の攻勢を受けた。胡季犛は河静に逃れたが、6月末に捕らえられた。 胡朝の抗戦が敗北に終わっても人民の抵抗は続き、各地で蜂起が起こった。塗山の范玉、広寧の黎餓、東潮の范振・陳月湖、北江の范必大、富寿の陳元漼、太原の陳元康などである。中でも陳朝の貴族である陳頠の蜂起(1407年~1409年)・陳季拡の蜂起(1409年~1414年)が大規模なものであったが、いずれも主導権争いなどの内訌が生じて弱体化し、蜂起は失敗に終わった。
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