聖使徒修道院の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「聖使徒修道院の戦い」の解説
1901年秋、ムシュ近郊の聖使徒修道院(フランス語版)でオスマン軍とフェダイの間に衝突が発生した。この戦いでは、ムシュに影響力を持っていたアンドラニクを狙ってオスマン軍が5千人を超す兵士を送り込み、最終的に11月上旬にアンドラニクらおよそ50人のフェダイは要塞化された聖使徒修道院に立て籠もることとなった。 1200人の軍勢が修道院を包囲して投降を呼びかけるなか、アンドラニクらは小さなグループに分かれて修道院から脱出することに成功した。レフ・トロツキーによれば、アンドラニクらはオスマン軍将校の軍服を着て修道院を出て、包囲する兵士らに流暢なトルコ語で話しかけ、自分たちがいた場所を指し示しさえしたという。この出来事によってアルメニア人たちの間でアンドラニクの名声はまたも高まり、単に「アンドラニク」といえばオザニアン個人が指されるまでになった。しかし、アンドラニクの意図したところは、ムシュのアルメニア人農民の窮状を外国の領事らの目に留まらせ、弾圧される東アナトリアのアルメニア人に希望の光を灯すことだった。トロツキーによれば、アンドラニクの「政治的な考えは、カルボナリ的活動と外交的陰謀によって形成されていた」という。
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