美濃国主稲の推測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 05:48 UTC 版)
『日本書紀』は壬申の乱で高田新家が鈴鹿郡で出迎えたことを記すが、その肩書きを記さない。新家を美濃国主稲とするのは、『続日本紀』天平宝字7年(763年)11月28日条からの推測である。そこには高田足人が高田寺の僧を殺害した罪により投獄され封戸を没収されたことと共に、「足人の祖父は美濃国の主稲で、壬申の兵乱に際して自分の馬で皇駕(天皇が乗る馬。天皇その人を間接的に指す)を美濃・尾張国に奉じた。天皇はこれを賞して封戸を与え子に伝えさせた」とある。祖父の名が記されないため確実ではないが、祖父は新家のことで、足人は首名の子ではないかと考えられている。またここでいう美濃国主稲の性格については、大海人皇子の湯沐邑に関する官ではないかとされている。
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