羅芸とは? わかりやすく解説

羅芸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/21 06:31 UTC 版)

羅芸

羅 芸(羅藝、ら げい、生年不詳 - 627年)は、隋末唐初の人物。に帰順して燕王に立てられたが、後に乱を起こした。は子延。本貫襄陽郡襄陽県

生涯

隋の監門将軍羅栄の子として生まれた。京兆郡雲陽県を居とした。羅芸は性格が図太くて人を憐れまず、勇戦して弓射をよくし、槊を用いるのを得意とした。大業年間、虎賁郎将に任ぜられた。高句麗遠征において、武衛大将軍の李景の麾下として北平で一部隊を率いたが、羅芸は李景を侮ってしきりに侮辱した。

隋末に叛乱が多発するようになると、涿郡は物資が豊富で、高句麗遠征の残兵が多数いたため、叛乱軍の標的としてしばしば侵攻を受けた。留守の将の趙什住・賀蘭宜・晋文衍らは支えることができなかったが、ただ羅芸一人が、叛乱軍をしばしば撃退して、武勇は軍中に冠し、諸将に恐れられた。羅芸は一計を案じて出陣し、「我が軍は賊を討ってしばしば功績を挙げたが、食糧難に苦しんでいる。官庫の粟は山のようであるのに、留守の連中が独占しているからだ」と言って自軍の兵を扇動した。涿郡に帰還すると、出迎えた郡丞を捕らえて兵を入城させた。趙什柱らは恐れて羅芸に従った。羅芸は官庫を開いて部衆に報償を与え、官倉を開いて粟を窮人に供した。自分に同調しなかった渤海郡太守の唐禕らを殺し、威勢は北辺に振るい、柳城懐遠鎮の地まで帰順させた。柳城郡太守の楊林甫を左遷し、柳城郡を改めて営州とし、襄平郡太守の鄧暠を営州総管とし、羅芸自身は幽州総管を称した。

宇文化及が山東まで北上すると、使者を派遣して羅芸を招諭したが、羅芸は「私は隋室の旧臣であり、いま太行山が転覆したとしても、義を賊に辱めることはしません」と言って使者を斬り、煬帝のために喪を発して三日の間服した。竇建徳高開道らもまた羅芸に使者を送った。羅芸は「竇建徳らはみな凶悪な賊であり、宇文化及は弑逆の徒であって、いずれも従うことはできない。いま唐公(李淵)が起兵して、人望を集め、関右に拠っているから、必ず王業は成されるだろう。私は彼に帰順することを決めた。異議を立てる者がいれば必ず殺さん」と属官たちに言った。ときに張道源が高祖李淵の命令を受けて山東を巡り、羅芸を招諭したため、武徳2年(619年)に羅芸は表を奉って唐に帰順した。燕王に封ぜられ、李姓を賜った。その後たびたび竇建徳と戦い、これを撃破した。

秦王李世民劉黒闥を討ったとき、羅芸は弟の羅寿を従軍させ、自身は数万の兵を率いて劉十善・張君立の軍を徐河で撃破した。劉黒闥が突厥の兵を率いて再起すると、羅芸は皇太子李建成洺州で合流した。入朝して高祖の礼遇を受け、左翊衛大将軍に任ぜられた。羅芸は功名を恃んで、謙ることが少なかった。李世民の側近が羅芸の陣営に行った時、羅芸がこれを殴打する事件が起こった。高祖は怒ったが、当時は突厥の横行が酷く、羅芸は北方の異民族に睨みが利いたために、しばらくして許した。羅芸は本官をそのままに、天節軍将を領して涇州に駐屯した。

曹州の女子に李氏という者がいて、鬼道に通じて病気を治すことを触れ込みとしていたが、高祖に召されて長安に赴いた。李氏はこの時から羅芸の家と往来をもつようになった。李氏は「妃の顔相は貴く、必ず天下の母となりましょう」と羅芸の妻の孟氏に言った。孟氏はこれを篤く信じて、李氏に羅芸を見るように言うと、李氏は「妃の貴いのは王によるものです。王が貴色を発していますから、十日の間に大位に昇りましょう」と言った。こうして孟氏は羅芸に叛乱を勧めた。

李世民が即位する(太宗)と、開府儀同三司に任ぜられた。羅芸は叛乱を計画して、閲兵を口実に兵を集め、密詔を受けて入朝すると称して、軍を豳州に進めた。治中の趙慈皓が知らずに出迎えたところ、羅芸は豳州を占拠した。太宗は長孫無忌尉遅恭に羅芸を攻撃させた。その到着以前、趙慈皓と統軍の楊岌が羅芸の排除を謀ったが、発覚して羅芸は趙慈皓を捕えた。外から楊岌の攻撃を受けると、敗れた羅芸は妻子を捨て、数百騎で突厥に逃れようとした。寧州の境にいたり、烏氏駅を過ぎたところで側近に斬られ、その首級は長安に運ばれて市に晒された。妻の孟氏と李氏も共に斬られた。弟の羅寿は利州都督になっていたが、連座して処刑された。

伝記資料

  • 旧唐書』巻56 列伝第6「羅芸伝」
  • 新唐書』巻92 列伝第17「羅芸伝」

羅芸(ら げい)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:27 UTC 版)

長歌行」の記事における「羅芸(ら げい)」の解説

軍神として名を馳せた老将。元は隋の将軍であったが、唐へ帰順した際、中国北東部治め燕王立てられ姓を賜り芸」を名乗っていた。長歌の父・李建成親しく李建成李世民殺されたため叛乱起こすものの敗れ替え玉立て密かに逃走していた。再挙兵のため突厥との接触図り偶然に長歌再会する。しかし長歌進言憤慨深手負っていたこともあり、部下“燕雲十八騎”長歌託して死亡した

※この「羅芸(ら げい)」の解説は、「長歌行」の解説の一部です。
「羅芸(ら げい)」を含む「長歌行」の記事については、「長歌行」の概要を参照ください。

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