第2次英緬戦争とは? わかりやすく解説

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第二次英緬戦争

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 08:47 UTC 版)

第二次英緬戦争
英緬戦争

第二次英緬戦争に出征するビルマ軍兵士
1852年4月5日 - 1853年1月20日
場所 下ビルマ
結果 イギリスの勝利、下ビルマの割譲、ミンドンによるバガン英語版の廃位
衝突した勢力

イギリス帝国

ビルマ王国

第二次英緬戦争(だいにじえいめんせんそう、英語: Second Anglo-Burmese Warビルマ語: ဒုတိယအင်္ဂလိပ်-မြန်မာစစ်)は、コンバウン朝ビルマ大英帝国のあいだで1852年から1853年にかけて行われた戦争である。この戦争の結果として、ビルマは下ビルマを喪失した。

開戦

第一次英緬戦争を通して、ビルマとイギリスはヤンダボー条約英語版を締結した。しかし、バジードー英語版を継いでビルマ国王となったターヤーワディ英語版はこの条約を認めず、インド提督の派遣した駐箚官もイギリスの代表とはみなさなかった。以来、ビルマとイギリス東インド会社の関係は険悪なものとなる[1]。ターヤーワディおよび次代のバガン英語版の治世下、ビルマにおけるイギリス人の地位は保障されず、ラングーン(ヤンゴン)のイギリス人の間ではこのことに対する不満が高まった[2]

1851年、ビルマのハンターワディー知事はイギリス人船長を船員殺害の罪で拘禁し、それぞれに罰金を科した。このことにイギリス領インド帝国は抗議した[1]。1852年、ダルハウジー卿ジェイムズ・ラムゼイは条約に関するいくつかの問題について論議するため、ジョージ・ランバート英語版准将を派遣した。ビルマはイギリスに譲歩し、知事を解任したものの[3]、ランバートはラングーン港を封鎖し、ビルマの王室船を拿捕して軍事衝突を起こした[4]

第二次英緬戦争の性質は議会には歪曲して伝えられており、開戦をめぐる事実関係については当時匿名で刊行された冊子である『インドにおいて戦争はいかにしてはじめられるのか(How Wars are Got Up In India)』からわかることが多い。この冊子の著者はリチャード・コブデンであり、ビルマ侵略・併合に関する決定を下したのが誰かということに関するほとんど唯一の同時代史料となっている[5]。コブデンはラムゼイが砲艦外交を行ったこと、同事件の賠償金を1000ポンドから10万ポンドに引き上げたこと、彼がビルマ外交の専門家であるアーチボルド・ボーグル(Archibald Bogle)ではなくランバートを派遣したことを非難したが、ラムゼイはランバートが第二次英緬戦争を引き起こしたことを否定した[3]

戦闘

ダベイン卿マウン・ジー

1852年1月、イギリス軍はラングーン・バセインモールメインの3港を封鎖し、最後通牒に対するビルマ側の返答を待つことなく軍事行動を起こした[2]。4月5日、イギリスはマルタバンを占領した。同12日にはラングーンを占領し(ラングーンの戦い英語版)、シュエダゴン・パゴダを砲撃[6]、14日に制圧した。激しい戦闘の後、ビルマ軍は北面に退却した。イギリスは5月19日にバセイン、6月3日にシュエモードー・パゴダ英語版での激戦の後ペグーを占領した。雨季のあいだにイギリス東インド会社理事会およびイギリス政府はプロームを含むイラワジ川下流域の併合を承認した[7]。戦闘の終結後、いくつかの寺院が略奪を受けた[8]

ラムゼイは7月から8月にかけてラングーンを訪問し、文官・軍人・海軍当局者と全体の状況について協議した[7]。彼はビルマ全土の併合を目指すのでない限り、王都への進軍は戦争遂行の手段として得策でないとしたうえで、それは軍事的・経済的に達成不可能であると述べた[3]ヘンリー・ゴドウィン英語版海軍少将は10月9日にプロームを占領した。ビルマ側の指揮官は第一次英緬戦争で戦死したマハー・バンドゥーラ英語版の息子であるダベイン卿マウン・ジーであったが、ほとんど反撃はなかった[3]。12月初旬、ラムゼイはバガン王にペグー領の東インド会社領併合を通告した[7]

終戦

1853年1月20日に併合の布告が出されると、第二次英緬戦争は条約履行なしに終戦した[7]。この戦争の結果としてアマラプラ英語版では政変が起こり、2月、主戦派であったバガン王は和平派のミンドンにより廃位された[1][3]。ミンドンは3月にイタリア人牧師2人からなる和平交渉団をプロームに派遣した。しかし、この段階でイギリス軍はさらに80 km北方のミェーデー(Myedè)まで進出していた[1][3]。この地域にチークが多く生えていたこともあり、イギリスはミェーデーの北6マイル (9.7 km)まで割譲することを要求した。ビルマは地方の首長に過ぎないインド総督を交渉相手とすることはできず、ヴィクトリア女王あての使節団を派遣しようとするものの、これはベンガルの東インド会社により足止めされてしまう。結果、インド政庁の主張は既成事実化し、ビルマはそのまま下ビルマを喪失した[1]

出典

  1. ^ a b c d e 石井 & 桜井 1999, pp. 297.
  2. ^ a b 四宮宏貴「ビルマ戦争」『改訂新版 世界大百科事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E6%88%A6%E4%BA%89コトバンクより2025年10月3日閲覧 
  3. ^ a b c d e f D.G.E.Hall (1960). Burma. Hutchinson University Library. pp. 109–113. オリジナルの2005-05-19時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20050519230755/http://mission.itu.ch/MISSIONS/Myanmar/Burma/bur_history.pdf 
  4. ^ Southeast Asia: a historical encyclopaedia, from Angkor Wat to East Timor, Volume 1 By Keat Gin Ooi英語版, p. 736
  5. ^ This text went through several "editions" rapidly, with the third edition already in print in 1853 (this was subsequently reprinted in The Political Writings of Richard Cobden, vol. 2)
  6. ^ Laurie, William Ferguson Beatson (1853) (英語). The Second Burmese War: A Narrative of the Operations at Rangoon, in 1852. Smith, Elder & Company. https://books.google.com/books?id=VjoQAAAAYAAJ 
  7. ^ a b c d  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Burmese Wars”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 847.
  8. ^ Michael Gravers (1999). Nationalism as Political Paranoia in Burma: An Essay on the Historical Practice of Power. Nias Reports. pp. 8–9. ISBN 0-7007-0980-0 

参考文献




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