ルッターベルクの戦い (1762年)とは? わかりやすく解説

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ルッターベルクの戦い (1762年)

(第2次ルッターベルクの戦い から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/11 09:21 UTC 版)

ルッターベルクの戦い
戦争七年戦争
年月日1762年7月23日
場所ドイツルッターベルクドイツ語版
結果:ハノーファーの勝利
交戦勢力
ハノーファー選帝侯領
ヘッセン=カッセル方伯領
グレートブリテン王国
フランス王国
ザクセン選帝侯領
指導者・指揮官
フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル フランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン

ルッターベルクの戦い(ルッターベルクのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Lutterberg)は七年戦争中の1762年7月23日ルッターベルクドイツ語版付近で行われた戦闘。1758年にも同じ場所で戦闘があったので、第二次ルッターベルクの戦い(だいにじルッターベルクのたたかい、ドイツ語: Zweite Schlacht bei Lutterberg)とも呼ばれる。フランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン率いるフランスとザクセンの連合軍がフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル元帥率いるイギリス、ハノーファー、ヘッセン=カッセルの連合軍と戦った。

経過

ザクセン軍とフランス軍はフルダ川右岸で野営していた。フルダ川左岸で集結したヘッセン=カッセルとハノーファーの連合軍は午前3時に奇襲攻撃を仕掛け、川越しで激しい砲撃戦をはじめた。ヴァーンハウゼンドイツ語版クニックハーゲンドイツ語版ヴィルヘルムスハウゼンドイツ語版ボナフォルスドイツ語版の交差点にある洗い越しでも激戦がおきたが、正午にはヘッセン=カッセルとハノーファー軍の勝利で決着し、フランス軍はゲッティンゲンミュンデンに撤退した。

両軍の死傷者は合計2,500人であった。

脚注

参考文献

  • Friedrich Stehlich: Die Schlacht bei Lutterberg am 10. Oktober 1758 und am 23. Juli 1762. Zwei Vorträge. Verein für Heimatkunde, Hann. Münden 1913.

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