白羊朝の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:04 UTC 版)
ウズン・ハサンは、法典の整備を実施している。白羊朝からアナトリアを奪取したオスマン帝国は、中部及び東部アナトリアの統治においては、ウズン・ハサンが編集した法典に基づいての統治が展開された。そのことは、16世紀の史料にも残存しており、その史料は南東アナトリア、北部シリア、北部イラク、地中海をめぐる諸港から発見されている。オスマン帝国がウズン・ハサンの法典を用いていた証拠であると同時に、白羊朝が関税収入に依拠した交易国家であった証でもある。 ウズン・ハサンは、サファヴィー教団を懐柔する目的もあり、当時の教団の教主であったジュナイドと接近した。しかし、それ以後の白羊朝は、サファヴィー教団の弾圧に政策を転じた。その後、白羊朝をサファヴィー教団が滅ぼすにいたることになるが、サファヴィー朝の初代シャーであるイスマーイール1世は、ウズン・ハサンの孫にあたる。ウズン・ハサンの懐柔策の際に、彼の娘のハリマ(アーラム・シャオ)はハイダルと結婚しているが、イスマーイール1世はそのハイダルの子供にあたるためである。
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