白井権之助の専横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:29 UTC 版)
慶長19年(1614年)6月、初代藩主種長が病没すると、5歳の孫の種春では幼すぎて政務は行えないとして、その実父で種長の娘婿である種貞が江戸へ出向き、自らの相続権を主張したが、既に種春は将軍に拝謁しているとして却下された。すると、藩主は成人するまで藩地へ下向できない決まりであるのをいいことに、家老の白井権之助種盛が自らの政敵を粛清し始める。 まず、種長の死去より4ヶ月後、種盛はまず種貞の附家老である坂田五郎左衛門を、藩命と偽って討ち手を放って殺害、次に元和2年(1616年)、その討ち手となった甥の内田吉左衛門(種盛の兄・四郎右衛門の子)を、旧悪が露見したとして国光原(現・児湯郡川南町)に隠棲していたのを検使を遣わして切腹に追い遣った。更に翌元和3年(1617年)、種長の父種実の娘婿である板浪清左衛門長常に不義の行いありとして、高鍋藩士の約半数を動員して長常の邸を襲撃した。長常は邸に火を放って妻子と共に自害、その一族36名が討ち死にした。これに旧来よりの重臣らの病死なども重なり、種盛は藩の実権を掌握していった。
※この「白井権之助の専横」の解説は、「上方下方騒動」の解説の一部です。
「白井権之助の専横」を含む「上方下方騒動」の記事については、「上方下方騒動」の概要を参照ください。
- 白井権之助の専横のページへのリンク