癸酉靖難前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 16:09 UTC 版)
「癸酉靖難」も参照 1453年陰暦10月、世祖が金宗瑞・皇甫仁などを殺害して、議政府領議政兼摂政に上がった折、官職を捨てて前司諫の資格で善山に退いた。首陽大君が端宗に請じて河を左司諫に任命しようとしたが辞退した。1454年に集賢殿副提学に復職されると大闕の隣にある仏堂が王室によいと못함を持ってこれを훼철することを主張した。 同年≪世宗実録≫編纂に兼任春秋館編修官として参加し、経筵侍講官で王に慶事を講論した。副提学・礼曹参議などを歴任して、1455年にまた職制学になってから礼曹参議になった。1455年に世祖が王位を簒奪して礼曹参判に任命すると、やむを得ず就任したが、俸禄を受ける事を恥じて別室に積んでいた。まもなく王世子右副賓客を兼任するようになった。その後礼曹判書へ昇進した。
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