男谷信友への弟子入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:56 UTC 版)
虎之助が天保9年(1838年)に江戸に現れたとき、当時「日本随一」ともいわれた男谷信友に試合を申し込んだ。男谷は例によってあっさりとこれを受け、三本勝負の一本を虎之助に取らせた。 これに勢いづいた虎之助は、つづいて井上伝兵衛の道場に挑んだ。井上は男谷と同じ直心影流藤川派剣術の「三羽烏」といわれたこともある強豪であり、手加減なしで虎之助をさんざんに打ち込んだ。虎之助が井上に入門を申し込んだところ、井上は男谷への入門を勧めたという。虎之助は「亀沢町(男谷道場)ではもう手合わせ願いましたが、評判ほどのことはありませんでした」と答えた。井上はにやりとして虎之助の観察が甘いといい、「あの方の技量はどこまで強いか底が知れない。君は軽くあしらわれて花を持たせてもらっただけのことだ。もう一度行ってみろ」と紹介状を書いてくれた。 虎之助はいわれたとおり紹介状を持って男谷道場を再訪し、謝って弟子入りしたという。一説には、このとき再度立ち合ったところ、男谷の眼光に圧倒され、道場の隅に追い込まれて平伏するほかなかったともいう。
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