田嶼碩朗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 田嶼碩朗の意味・解説 

田嶼碩朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/14 10:22 UTC 版)

田嶼 碩朗
(たじま せきろう)
生誕 1878年7月4日[3]
福井県三国町(現坂井市[2]
死没 (1946-03-30) 1946年3月30日(67歳没)
国籍 日本
出身校 東京美術学校[3]
著名な実績 彫刻家
代表作 クラーク像[3]
聖恩碑
公式サイト sekirou-tajima.com
活動期間 明治 - 昭和[1]
影響を受けた
芸術家
正木直彦[2]
高村光雲[2]

田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本彫刻家[1]。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した[1]福井県出身[3]

来歴

1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる[2]。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学[2]、在学中は正木直彦高村光雲に師事[2]

卒業後は院展帝展などで入賞を繰り返した[2]。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える[2]。生前は詩人室生犀星と親しかった[3]

北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない[2]

碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像[4](以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月[5]に金属供出され[注釈 1]、戦後1948年(昭和23年)10月[4]に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行った[6]ところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清[6]が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している[3][2]。これらは元像石膏原型の写真が決め手となり判明した[3]

作品

手島精一像
W.S.クラーク胸像[7]
1926年(大正15年)5月14日建立[4]、1943年(昭和18年)6月に戦争のため金属供出[5]、1948年(昭和23年)10月再建立[4]
胸像、北海道札幌市北区北海道大学構内[3][7]。現存像は田嶼碩朗の石膏原型を使用し加藤顕清監修の元に再建立されたもの[6]。デザインは東京美術学校時代の恩師である正木直彦[4]
聖恩碑
1939年(昭和14年)4月完成[8]
塔碑、北海道札幌市、大通公園[8]
手島精一先生像」
1920年(大正9年)製作[9]
胸像、東京工業大学百年記念館4階[9]
浅羽苗邨先生像」
1926年製作[10]
胸像、北海道札幌市豊平区北海高校前庭[10]

脚注

注釈
  1. ^ 現存しない[5]
脚注

参考文献

  • 山崎貞子『彫刻家 田嶼碩朗』共同文化社、2016年1月15日。ISBN 978-4877392772 

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田嶼碩朗」の関連用語

田嶼碩朗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田嶼碩朗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの田嶼碩朗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS