田中春風
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田中 春風(たなか しゅんぷう、1838年(天保9年)頃 - 1918年(大正7年)9月17日)は、日本の陸軍軍人、司法官、歌人。位階は正五位、勲等は勲五等。通称は源之丞。名は益雄とも称す。
生涯
長州藩士・田中登人の子として生まれる[1]。文久元年(1861年)、藩主に従って江戸に出て洋学を修め、翌年に扈従を免じられ藩学の学館舎長となった。元治元年(1864年)、藩世子の東上に再び随従を命ぜられ、内訌鎮静ののち右筆役に任ぜられた。
明治維新後は陸軍省に出仕し、明治4年(1871年)白戸隆盛らとともに陸軍中佐に任ぜられた。明治6年(1873年)正六位に叙される。 佐賀の乱(1874年)では政府軍として出征し、三瀬峠方面では井田譲少将・高島信茂少佐・古川氏潔少佐らとともに、広島鎮台第15大隊の3個中隊を率いて転戦した。
のち司法省に転じ、明治14年(1881年)に判事に任ぜられ、宮城控訴院判事に昇進した。正五位・勲五等に叙せられたのち退官し、大正7年(1918年)9月17日に没した。享年80前後[1]。
春風は大村益次郎暗殺事件の際の詳細な証言を残しており、事件研究における重要な史料の一つとされる。
御親兵兵営(後の近衛師団)で乃木希典と出会い、その勤勉な性格に感銘を受けて自宅に招き、「君の学問を投げ打って憂国の至情で兵に志したという話を聞いた。実に頭が下がる。このまま教官として残ったらどうか」 と勧めたという[2]。乃木はこれに感謝し、以後いっそう研鑽に努めたと伝えられる。
文学
晩年は和歌を好み、次の一首が伝わる。
「年をへて 緑いやます おい松は 君がよはひの ためしなるらむ」 (『萩の歌人』1957年、萩文化協会、69頁)
脚注
- ^ a b マツノ書店 1976, p. 147.
- ^ 学習社 1943, p. 92.
参考文献
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