広異記 (王通明)
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撰者は王通明(おうつうめい)。但し、存世の時代や本貫、経歴の一切は不明であり、従って本書の成立年代も不明で、唐の懿宗の咸通初年頃(基督教暦9世紀中半)の成著と考えられる樊綽(はんしゃく)『蛮書』(ばんしょ)巻10に本書を引いて槃瓠の神話を叙しているのでそれ以前の成立であった事しか判らず、更に、その槃瓠神話の僅か1条が確かな逸文として知られるのみで全体の内容や巻数も明らかでないが、その1条から敷衍すると古代の神話を集めた志怪集であったとも推定出来る[1]。
なお、『太平御覧』巻921や呉淑(ごしゅく)撰注『事類賦』(じるいふ)巻19、董斯張(とうしちょう)纂『広博物志』(こうはくぶつし)巻42等が『広異記』からとして引く赤帝女(せきていじょ)の帝女桑神話も古代神話という共通性から槃瓠神話同様本書の逸文である可能性がある[2]。
脚注
王通 (明)
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王 通(おう つう、生年不詳 - 1452年)は、明代の軍人。字は彦亨。本貫は西安府咸寧県。
生涯
金郷侯王真の子として生まれた。父の官を嗣いで都指揮使となった。父の兵を率いて転戦し、功績を挙げて都督僉事に累進した。1403年(永楽元年)5月、武義伯に封じられ、世券を与えられた。1409年(永楽7年)、長陵の造営を監督した。1413年(永楽11年)5月、成山侯に爵位を進められた。1414年(永楽12年)、永楽帝の漠北遠征に従い、左掖を管轄した。1418年(永楽16年)、陝西での飢饉に際して振恤にあたった[1]。1422年(永楽20年)、永楽帝の漠北遠征に従い、右掖を管轄した。1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位すると、王通は後府を管掌するよう命じられ、太子太保の位を加えられた。
ときに交趾総兵官の豊城侯李彬が先だって死去しており、栄昌伯陳智と都督方政が参将として交趾に駐屯していたが、二人の仲は険悪で協調を欠いていた。ベトナム北部で黎利が勢力を拡大し、たびたび郡邑を破り、明の将軍や官吏を殺していた。1426年(宣徳元年)4月、宣徳帝は陳智と方政の官爵を削った。王通が征夷将軍の印を受けて総兵官となり、軍を率いて黎利の討伐に赴くこととなった。黎利の弟の黎善が交州府城を攻め、都督の陳濬らがこれを撃退した。王通が交趾に到着すると、道を分かれて出撃した。参将の馬瑛が黎利の軍を石室県で撃破した。11月、王通は軍を率いて馬瑛と合流し、応平の寧橋までいたって伏兵に遭遇した。王通の軍は大敗して、戦死者は2万から3万人に達し、兵部尚書の陳洽も敗走中に自死した。王通は負傷して交州府に帰った。黎利は乂安でこのことを聞くと、自ら精兵を率いて東関を包囲した。王通は戦意を喪失しており、ひそかに人を北京に派遣して黎利の封建を許すよう請願し、清化迤南の地が黎利に帰属することを認めて停戦しようとした。按察使の楊時習がこれに反対したので、王通は声を荒げて叱った。清化知州の羅通も城の放棄を受け入れず、指揮の打忠とともに堅守していた。北京の朝廷は柳升らを派遣して王通を助けさせることにした。
1427年(宣徳2年)2月、黎利が交州府城を攻撃した。王通は精兵5000を出撃させて黎利軍の不意を突き、その陣営を破って、黎利の司空の丁礼以下1万人あまりを斬った。黎利が敗走したので、諸将は追撃の許可を求めたが、王通は許可しなかった。黎利は態勢を立て直して、柵を立てて塹壕を掘り、兵を分遣して昌江・諒江を攻め落とし、交州を再び包囲した。王通は兵を集結させて出撃しなかった。黎利が講和を求めたので、王通はこれを奏聞した。9月、柳升が倒馬坡で戦没し、沐晟の軍が水尾県で進軍できなくなった。王通はひそかに黎利との交渉を進めた。10月、王通は交州における明の官吏や軍民を集めて城から出させ、黎利と盟約して軍の撤退を開始した。12月、王通は太監の山寿と陳智らに命じて水軍を欽州に撤退させ、自らは歩兵と騎兵を率いて広西に撤退した。南寧までいたって、ようやく撤退のことを奏聞した。北京の朝廷では厭戦論が広がり、ついに交趾の放棄が承認された。
1428年(宣徳3年)、王通が北京に帰ると、群臣たちの弾劾を受け、死刑を論告されて獄に繋がれた。世襲の特権を停止され、家の財産を没収された。1439年(正統4年)、特別に一命を赦されて、爵位を剥奪されて民とされた。1449年(正統14年)、景泰帝が即位すると、王通は都督僉事に起用され、北京城を守った。エセン・ハーンの侵攻を防いだ功績により、都督同知に進み、天寿山を守備するよう命じられ、没収された財産を返還された。1452年(景泰3年)、死去した。
脚注
参考文献
- 『明史』巻154 列伝第42
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