崒洞・祝洞の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:23 UTC 版)
1426年10月、王通が指揮する5万の援軍が東関に入り、ここで明軍は10万の兵力となった。主導権を奪回するべく王通は大反撃を決断し、高部(ハノイ市チュオンミー県)における義軍の主力を攻撃するべく、1426年11月7日の朝に出陣した。 王通の動きをつかんだ義軍は崒洞(トットドン)・祝洞(チュクドン)に伏兵を配した。明軍が陣地に入った時、義軍は一斉に敵軍に突撃した。明軍の部隊は分断され、水田のぬかるみへと追いやられて壊滅した。結果として5万以上の死傷者を出し、1万以上が生け捕りになった。王通は負傷し、東関へと逃げ帰った。兵部尚書の陳洽は敵将李亮とともに戦場で殺された。 戦勝のあと、藍山義軍は勝利に乗じてさらに多数の州県を解放した。
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