片岡我童 (13代目)とは? わかりやすく解説

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片岡我童 (13代目)

(片岡仁左衛門 (14代目) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/11 03:46 UTC 版)

十三代目 片岡 かたおか 我童 がどう

我童襲名披露興行での口上
(1955年7月)
屋号 松嶋屋
定紋 七ツ割丸に二引 
生年月日 1910年7月6日
没年月日 (1993-12-31) 1993年12月31日(83歳没)
本名 片岡一
襲名歴 1. 片岡一
2. 片岡ひとし
3. 五代目片岡芦燕
4. 十三代目片岡我童
5. 十四代目片岡仁左衛門(追贈)
十二代目片岡仁左衛門
兄弟 二代目市村吉五郎
六代目片岡芦燕

十三代目 片岡 我童(かたおか がどう、明治43年(1910年7月6日 - 平成5年(1993年12月31日)は歌舞伎役者。本名は片岡 一(かたおか はじめ)。十三代目片岡仁左衛門とともに不振の上方歌舞伎の復興につとめ、また女形としても活躍した。

死後十四代目 片岡仁左衛門(じゅうよだいめ かたおか にざえもん)を追贈された(歴代仁左衛門では唯一の真女形)。

略歴

  • 明治43年(1910年)7月6日、十二代目片岡仁左衛門の長男として大阪に生まれる。
  • 大正6年(1917年)11月、本名の片岡一(はじめ)の名で中座で初舞台。
  • 大正13年(1924年)片岡ひとしと改名。
  • 昭和9年(1934年)6月、歌舞伎座で五代目片岡芦燕を襲名。
  • 昭和11年(1936年)4月、松竹を脱退し東宝劇団に加入。
  • 昭和14年(1939年)10月、松竹に復帰する。
  • 昭和21年(1946年)3月、父、十二代目片岡仁左衛門が下男に殺される(片岡仁左衛門一家殺害事件)。
  • 昭和30年(1955年)『神霊矢口渡』のお舟で十三代目片岡我童を襲名する(本来なら五代目になるが、父・十二代目仁左衛門の後継ぎという意味から十三代目を名乗った)。真女形として活躍。
  • 昭和33年(1958年)には、はとこにあたる十三代目片岡仁左衛門らとともに「七人の会」を立ち上げて、不振の極みにあった関西歌舞伎の復興に努めた。
  • 平成4年(1992年)京都南座顔見世での『河庄』のお庄が最後の舞台となった。
  • 平成5年(1993年)12月31日、正月の飾りの花を買っての帰途、路上で花束を抱えたまま急死する。83歳だった。

当たり役

古風な上方色の濃い芸風で、晩年まで濃艶な容姿は衰えなかった。特に『廓文章』「吉田屋」(くるわぶんしょう・よしだや)の夕霧・おきさや『恋飛脚大和往来』「封印切」(こいびきゃく やまと おうらい・ふういんきり)のおえん、『心中天網島・河庄』のお庄、『仮名手本忠臣蔵・六段目』の一文字屋お才など、色街の女主人役がよく知られている。

家族

弟に二代目市村吉五郎六代目片岡芦燕が、甥に十七代目市村家橘がいる。

逸話

芦燕時代、九代目市川高麗蔵(のちの十一代目市川團十郎)と愛人関係にあった。高麗蔵が市川三升の養子となる1940年(昭和15年)ごろまでその関係は続いたが、別れて以後、我童は来世で一緒になるために茶断ちを生涯続け、白湯と水以外は口にしなかったという。(関容子『海老蔵そして団十郎』、中川右介『団十郎と歌右衛門』)




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