河合象子とは? わかりやすく解説

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河合象子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 02:11 UTC 版)

かわい きさこ

河合 象子
生誕 田鶴[1]
天保6年閏7月23日[1]
日本三河国吉田城
死没 1909年(明治42年)12月16日[2]
静岡県気賀町[3]
影響を受けたもの 小中村清矩
山中熊之進(父)
中村ひで(母)
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河合 象子(かわい きさこ、天保6年7月23日1835年9月15日[1] - 明治42年〈1909年12月16日[2])は、日本歌人教育者

人物

父は三河国吉田藩大河氏の家臣であった山中熊之進、母は中村ひで[3]。天保6年閏7月23日、吉田城下において生まれる[1]。「田鶴」と命名される[1]。父の熊之進は砲術指南を生業としていたが、これとは別に和歌をたしなみ、弟子を100人抱えていたという[1]。母の中村いし(後にひでと改名)は、隣国の遠江国気賀町の出であった[4]

1859年(安政6年)には父を、1860年(万延元年)には母を相次いで亡くす[5]

1861年(文久元年)、紀伊国和歌山藩医河合松哲の後妻として迎えられる[3]。が、松哲とは1872年(明治5年)7月に死別する[6]

1873年(明治6年)4月には松哲の遺児である2児(麻枝・泰三)を連れ、松哲と過ごした熊野を出たのち、東京に移った[6]。松哲にはこのほかに2人の娘がいたが、すでに結婚して家を出ていた[6]

1875年(明治8年)には浜松女学校に招かれ教授となる[6]。浜松の近くに母の郷里である気賀があり、その生家に寄ることとなる[6]。気賀小学校などで教師として勤務する[3]

1884年(明治17年)に至って東京に移り、小中村清矩の内弟子となる[3]

1886年(明治19年)10月1日、松哲ともうけた実子である泰三が伊勢国安濃津において客死する[7]。25歳だった[7]

1906年(明治39年)には自宅である東京市下谷区谷中清水町に私塾石室舎を設け、古文・和歌を講じるが、2年後にはこれを閉鎖し、母の郷里である静岡県気賀に移り、75歳で亡くなった[3]

没後、遺稿集が『河合象子遺稿』として刊行された[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f 奥田眞 1931, p. 1.
  2. ^ a b 奥田眞 1931, p. 14.
  3. ^ a b c d e f g 日本図書センター 1998, p. 331.
  4. ^ 奥田眞 1931, p. 2.
  5. ^ 奥田眞 1931, pp. 2–3.
  6. ^ a b c d e 奥田眞 1931, p. 4.
  7. ^ a b 奥田眞 1931, p. 7.

参考文献

  • 『日本女性人名辞典[普及版]』日本図書センター、1998年。ISBN 9784820578819 
  • 奥田眞「河合象子略年譜」『河合象子遺稿』鈴木庫太郎、1931年。 



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