池田永治とは? わかりやすく解説

池田永治

(池田永一治 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/04 14:27 UTC 版)

池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本漫画家洋画家挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。

概略

1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。

本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)などで、これらは丑年うまれにちなむ。

父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。代表作「国土豊」(1942年新文展無鑑査)など4点が兵庫県立美術館に収められている。

岡本一平らと東京漫画会をおこして活動し、1931年、読売新聞社漫画部員となり、「読売サンデー漫画」を中心に政治風刺漫画、こども漫画、俳漫画に独自の筆を振るった。代表作は「こども漫画ピチベ」。俳画は小川芋銭に師事し、1916年、1918年「現代俳画集」などで活動し、1941年理論書「新理念 俳画の技法」を著している。また、田山花袋に認められ、1920年「山水処々」、1924年「東京震災記」など博文館の花袋著書11冊で挿絵・装幀を担当した。戦争中も在京して創作・慰問の活動を続けたが、戦後は持病の糖尿病が進行し活動が低減した。1950年12月30日、療養先の富山県氷見郡阿尾村で死去。享年62歳。

著作

  • 『新理念俳画の技法』、芸術学院出版部、1941年
  • 『少年漫画 ピチベでかした』牧歌社、2005年。
  • 『俳画家池田永一治俳句集』神戸新聞総合出版センター、2019年。
  • 『画家池田永治の記録』神戸新聞総合出版センター、2019年。

共著

  • 『東海道漫画絵巻』東京漫画会、1921年。
  • 『大震災画集』日本漫画会、金尾文淵堂、1923年。
  • 『現代漫画大観』中央美術社、1928年。
  • 『漫画家養成講義録』日本漫画会。

参考資料





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