永松為治郎とは? わかりやすく解説

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永松為治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 00:46 UTC 版)

永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家官僚

人物

1865年豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。

1886年熊本県庁に奉職。1897年大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる[1]

1907年大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門平沼専蔵村井吉兵衛福澤桃介) 専務取締役に就任[2]

1913年ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任[3]。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。

1915年第12回衆議院議員総選挙立憲政友会より出馬するも落選 (同区からは小泉又次郎らが当選) [4]。同年、橋本圭三郎らと宝田石油へ入社し、その後日本石油 (現ENEOSホールディングス) 重役となる[5]

1939年に逝去。

1914年から1928年にかけて、現在の価値で計約7,000万円の寄付を行い、地域発展に寄与した。

脚注

  1. ^ 大分県人士録”. 2019年3月19日閲覧。
  2. ^ 開港五十年紀念横浜成功名誉鑑”. 2020年9月22日閲覧。
  3. ^ 馮軍南「20世紀初期南沙群島における日本の経済活動 : ラサ島燐砿株式会社を中心に」『東アジア文化交渉研究』第12巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2019年3月、331-344頁、ISSN 1882-7748NAID 1200066059322022年5月6日閲覧 
  4. ^ 大日本政戦記録史”. 2019年10月9日閲覧。
  5. ^ 小林久平「本邦石油工業の發達及び現況」『燃料協会誌』第15巻第9号、日本エネルギー学会、1936年、1132-1150頁、doi:10.3775/jie.15.11322022年5月6日閲覧 

参考文献

  • 『日本紳士録』交詢社、第12-21版、第25-36版。
  • 『人事興信録』人事興信所、第3-5版、第8版。
  • 『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
  • 『宝田石油株式会社25年史』宝田石油(株)、1920年。
  • 『日本石油史: 創立70周年記念』日本石油(株)、1958年。
  • 『宇佐市史』宇佐市刊行会、1979年。



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