細川興昶
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2018年11月) |
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 天明5年7月2日(1785年8月6日) |
死没 | 享和2年12月25日(1803年1月18日) |
改名 | 恒五郎→毛利煕和→細川興昶 |
別名 | 細川興利 |
戒名 | 等観院正音智覚[1] |
墓所 | 青松寺[1] |
藩 | 長州藩、常陸谷田部藩世嗣 |
氏族 | 毛利氏、谷田部細川家 |
父母 |
実父:毛利治親、実母:明善院 養父:細川興徳 |
兄弟 |
毛利斉房、毛利斉熙、興昶、毛利熙載、 水野忠篤、多美ら |
細川 興昶(ほそかわ おきのぶ)は、江戸時代後期の常陸国谷田部藩の世嗣。別名に興利(おきとし)。
略歴
初めは実兄の長州藩主毛利斉熙から偏諱を受けて毛利煕和(もうり ひろかず)を名乗る。谷田部藩7代藩主・細川興徳の養子となって細川興昶を名乗ったが、家督を相続することなく享和2年(1802年)に疱瘡のため死去した[1]。代わって、一色丹羽家から興祥が養子に迎えられて嫡子となった。
脚注
- 細川興昶のページへのリンク