武田次郎_(甲斐武田氏)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 武田次郎_(甲斐武田氏)の意味・解説 

武田次郎 (甲斐武田氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 15:22 UTC 版)

 
武田 次郎
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正10年(1582年
主君 武田勝頼
氏族 甲斐武田氏
父母 父:武田信豊、母:小幡憲重の娘?
兄弟 次郎、雅楽、小幡信氏
正室武田勝頼の娘
テンプレートを表示

武田 次郎(たけだ じろう)は、戦国時代武将甲斐武田氏の親族衆で、武田信豊嫡男武田信玄の大甥で、武田信繁の嫡孫にあたる。

生涯

天正9年(1581年)に当初、勝頼の娘と穴山信君見性院夫妻の嫡男・穴山勝千代の縁談が持ち上がった際、信豊は長坂虎房跡部勝資麟岳らに賄賂を送り、この2人の相性が悪いと讒言させて破談させ、代わりに次郎と勝頼の娘の婚約を成立させ、後に結婚させたという。『甲陽軍鑑』によると、この破談に信君も見性院も面目を潰されたとして激怒し、信君が織田信長徳川家康らに内通する原因になったという。

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐の際は父・信豊と行動を共にしたらしく、舅の勝頼が自刃してから5日後の3月16日、信濃小諸城において同城代下曽根浄喜謀反により、切腹したという(『信長公記』)。

ただし、『甲斐国志』では4月13日を没日としており、これが事実だとすると武田氏の滅亡から1か月ほど生き延びてから死亡したことになる。

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  武田次郎_(甲斐武田氏)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武田次郎_(甲斐武田氏)」の関連用語

1
56% |||||

武田次郎_(甲斐武田氏)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武田次郎_(甲斐武田氏)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの武田次郎 (甲斐武田氏) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS