検地と見分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
幕府からは見分との言葉が用いられていたが、見分とは『空き地や新開できる場所を見つけ出す』行為であった。しかし、市野一行は既に検地帳に記載されている田畑(本田)まで5尺8寸を一間とした(文政年間大久保今助が行った検地同様の)棹で測量し、余剰地を空地として石高をつけた。本田を検地することは『石高が動くことなれば容易のことにあらず』『公儀の御免なければ諸侯も欲しいままになし給うこと能わず』と定められ、容易に検地や石高変更を行うことができないはずであった。これに対して市野等は、新田の見分は『検地条目』によりでき、あくまでも今回は見分だと主張した。
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