松平定知 (旗本)とは? わかりやすく解説

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松平定知 (旗本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 21:13 UTC 版)

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松平定知
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保2年(1645年
死没 宝永5年3月6日1708年4月26日
改名 吉五郎、定主
別名 大蔵、数馬、空賢
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家綱綱吉
三河刈谷藩世嗣
氏族 久松松平家
父母 父:松平定政、母:永井尚政
兄弟 定澄[1]定知、定清、松平定員正室、
女子、女子
松平定充、松平定盈室、松平定爲[2]
養子:松平定盈[3]
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松平 定知(まつだいら さだとも)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本

略歴

三河国刈谷藩2万石を治めた松平定政の次男として誕生した。母は永井尚政の娘。

2代藩主となるはずだったが、父の定政が慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光の死去後、幕政に意見しさらに無届で東叡山寛永寺で遁世落髪したため、狂気の沙汰として改易された。定知ら家族も父に連座して蟄居させられ、定政の兄の松平定行伊予国松山藩)に預けられた。蟄居といえど定政には給米2千俵を与えられていたため、貧困していたような状態ではなかった。

寛文12年(1672年)に父が死去した後に江戸に召し返され、給米2千俵のうち1千500俵を与えられて寄合に列した。[4]元禄10年(1697年)に下野国安蘇郡で知行地1千500石を与えられ、異母兄・定澄と共に定政系の旗本久松松平家として存続した。

脚注

  1. ^ 寛政譜では「定政が次男、母は尚政が女」と記載、松山叢談では「定政公御長男。本藩続譜寛永十二年乙亥御誕生御妾腹」と記載されている。
  2. ^ 松平定実の曽孫
  3. ^ 婿養子。大名永井尚庸の三男
  4. ^ 残る500俵は同母弟・定清に与えられ、旗本となった。ただし嗣子無く断絶している。異母兄・定澄は本家の伊予国松山藩松平定直から分与を受けて同じく旗本。



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