李琰_(朝鮮)とは? わかりやすく解説

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李琰 (朝鮮)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 02:44 UTC 版)

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永膺大君 李 琰
宗親一世
大君
世宗二世
出生年 宣徳9年・世宗16年(1434年) -
没死年 成化3年・世祖13年(1467年
実父 世宗
実母 昭憲王后

李 琰(り えん、宣徳9年・世宗16年(1434年) - 成化3年・世祖13年(1467年))は、李氏朝鮮王族は琰。は明之。君号は永興大君→歴陽大君→永膺大君。第4代国王世宗の王子。母は昭憲王后沈氏。第5代国王文宗、および第7代国王世祖、安平大君臨瀛大君広平大君錦城大君平原大君の同母弟、桂陽君の異母弟で永豊君李瑔と同じ年の生まれである。母の昭憲王后の子女の中で末子であり、父王から特に可愛がられていた。第6代国王端宗、第8代国王睿宗叔父。なお、第16代国王仁祖以降の国王は、彼の血筋でもある(仁祖の生母の仁献王后具氏は、長女の玄孫である為)。

経歴

1441年に永興大君に封じられる。1442年に当時王世子だった長兄の文宗が父王の摂政となる。1443年に歴陽大君に転じる。1446年に母の昭憲王后が崩御する。1447年に永膺大君に転じる。1450年に自邸の東別宮で父王が崩御する。書や絵、音楽に造詣が深く、1463年に「明皇誡鑑」の歌詞をハングル文字に翻訳する。

最初、礪山宋氏の女性と婚姻したが、夫人が病弱であることを理由に、世宗によって離縁させられた。その後、海州鄭氏を継室に迎えたが、宋氏の事が忘れられず、世祖の協力もあり彼女の元に通い続けた。娘を二人儲け、鄭氏と離縁し宋氏と復縁した。

家族関係

  • 祖父:太宗 第3代国王
  • 祖母:元敬王后閔氏
  • 父:世宗
  • 母:昭憲王后沈氏
  • 兄:文宗
    • 甥:端宗
  • 兄:世祖
    • 甥:睿宗
  • 正室:春城府夫人 海州鄭氏(伯父の孝寧大君の正室の姪で、敬恵公主(端宗の姉)の夫の鄭悰の姉に当たる)
  • 正室:帯方府夫人 礪山宋氏(姪に端宗の王妃の定順王后がいる)
    • 長女:吉安県主 李億千 綾川府院君 具寿永と婚姻(その他に娘一人と、復縁後に儲けた数名の息子がいたが夭逝。吉安県主のみが成人した)
  • 側室:延城府夫人 延安金氏
    • 長男:清風君 李源
    • 次女:裵嗣宗と婚姻
    • 三女:趙徳穏と婚姻

参考文献




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