朴信子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 22:31 UTC 版)
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引退 | |
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愛称 | 韓国バスケの女王 |
박신자 | 韓国語 |
国籍 | ![]() |
生年月日 | 1941年12月26日(83歳) |
出身地 | 大韓民国ソウル特別市 |
身長(現役時) | 176cm (5 ft 9 in) |
キャリア情報 | |
高校 | 宿命女子高等学校 |
大学 | 宿命女子大学 |
プロ選手期間 | 1960–1967 |
ポジション | センター |
背番号歴 | 14 |
経歴 | |
1960–1967 | 商業銀行女子バスケットボール部 |
受賞歴 | |
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FIBA殿堂入り選手 (詳細) |
朴 信子(パク シンジャ、韓国語:박신자)1941年12月26日 - )はソウル市出身のバスケットボール選手。1960年代の韓国女子バスケットボールを世界レベルへと押し上げたセンター。商業銀行女子バスケットボール部と韓国女子代表(1964–1967)の主力として活躍し、背番号14は韓国女子バスケの象徴となった。現役引退後は指導・普及・大会運営にも携わり、1999年に米国の女子バスケットボール殿堂、2020年にFIBA殿堂「選手」部門に選出(いずれもアジア出身者として初とされる)された[要出典]。
人物
朴信子は宿命女子高等学校から宿命女子大学(英文学科)へと進み、在学中から国内トップクラスのセンターとして注目を浴びた。卒業後は商業銀行女子バスケットボール部に入団(1960–1967)。代表・所属を通じて一貫して背番号14をつけ、この番号はやがて彼女の代名詞となった。のちに同じ商業銀行に在籍したユ・ベクマン(柳白萬)(韓国代表の野球選手)も、朴に倣って14番をつけたと伝えられる。
国際舞台では早くから存在感を示し、1964年の第4回世界女子選手権で得点王およびワールド・ベスト5に選出された。引退を考えるほどの到達点だったが周囲の慰留で現役続行。1965年のアジア選手権(ソウル)では韓国の金メダルに貢献し、1967年のユニバーシアード(東京)では日本を破って優勝、国民的な自負心を高めた。
学究肌でもあり、選手生活のかたわら梨花女子大学大学院(体育学)で学び、結婚後は米国へ渡ってマサチューセッツ州スプリングフィールド・カレッジで体育学を専攻した。夫は在韓米軍の文官スティーヴン・ブラッドナーで、挙式は李天煥(韓人初の聖公会主教)が司式したことでも知られる。
1967年11月2日には、ソウルの奬忠(ジャンチュン)体育館で引退試合が催され、平日にもかかわらず約7,000人の観客が詰めかけた。26歳での早い引退は惜しまれたが、その後は指導・運営で競技発展に寄与。1982–1986年には信用保証基金女子バスケットボール部の創設監督を務め、1983年には韓国女子U-18代表も指導した。1988年ソウル五輪では組織委員会のバスケットボール担当として大会運営・渉外に尽力。1999年には女子バスケットボール殿堂(米テネシー州ノックスビル)に東洋人として初めて顕彰され、同年のWKBL夏季リーグ開幕式で記念シュートを放ち、WKBL新社屋竣工式にも出席した。家族面では1999年8月に末子アンドリュー(イェール大学卒)がハワイで挙式。2015年7月には自身の名を冠した**「朴信子杯サマーリーグ」**の開幕行事(束草体育館)に出席し、姪のパク・ジョンウンとともに入場して開幕記念シュートを披露した。
栄誉としては、上記の米殿堂入りに続き、2020年にはFIBA殿堂「選手」部門にも名を連ねた(アジア国籍初とされる)。現役時代の身長は176cm。欧州の長身選手に囲まれながら、ポジショニング・基本技術・判断力で体格差を覆すプレーが国際的評価を得た。
第五回FIBA女子ワールドカップ
第5回FIBA女子バスケットボール・ワールドカップ(当時の名称:世界女子選手権)は1967年、チェコスロバキア(プラハ)で開催された。韓国代表は東欧勢やソ連といった長身軍団がひしめく中で快進撃を見せ、銀メダルという歴史的快挙を成し遂げた[1]。
当時の韓国代表の平均身長は約168cmで、多くの東欧勢は平均190cm超。176cmの朴信子は国際基準では決して巨大なセンターではなかったが、リバウンド位置取りや早い戻りわ的確なポストワーク、そして味方を活かすハイポストからの配球などでチームの要となった。韓国は基礎技術の高さと頭脳的なゲーム運びで、チェコスロバキア、東ドイツ、ユーゴスラビアといった強豪を次々撃破。決勝ラウンドではソ連に敗れたものの、世界に技術で上回るアジアのバスケットボールを印象づけた。
朴は攻守両面で中心的役割を担い、しばしばチームの精神的支柱としても機能した。大会全体を通じて最大級の個人評価を受け、当時の記録や回想では大会MVPに選ばれたとの言及も見られる(史料により表記は揺れる)。彼女の躍進は、同年の韓国大統領選の時期と重なったこともあって国内で大きな話題となり、朴には「韓国バスケの女王」あるいは「国力の象徴」**という呼称が与えられた[2]。
この大会での銀メダルは、韓国女子バスケットボールの歴史的転換点となった。アジアの小柄なチームでも、戦術・技術・統率によって世界の長身パワーバスケットに伍しうることを実証したからである。朴個人は、1967年のユニバーシアード優勝(東京)と合わせて国民的ヒロインとなり、1967年11月2日の奬忠体育館での引退試合には約7,000人が詰めかけ、華々しい現役生活に幕を下ろした。
第5回大会での韓国の躍進と朴信子の活躍は、のちのWKBL発足や国際舞台での継続的な挑戦に与えた理念的・象徴的な遺産として評価され続けている。朴自身が後年に女子バスケットボール殿堂(1999)、FIBA殿堂(2020)へ顕彰されたことは、この1967年のインパクトが国境と時代を超えて認知されたことの証左である。
脚注
- ^ “한국여자농구를 빛낸 그 이름”. 2025年9月3日閲覧。
- ^ “한국여자농구를 빛낸 그 이름”. 2025年9月3日閲覧。
外部リンク
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